かん)” の例文
蜀山人しょくさんじんの狂歌におけるや全く古今にかんたり。しかしてその始めて狂歌を吟ぜしはおもふに明和めいわ三、四年のこう年二十歳のころなるべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
耶蘇ヤソ教的カルチュアーと同意義のものでなければ、開化なる語をかんすべきものでないと自信していたからであるというが如きはその一例である。
かんをうけて、将軍家に謁し、晴れて世子せいしとなってからは、幼心おさなごころにも得意であったが、この頃、わしの乳母うばとして、小督こごうという女がいつも側に仕えておった
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
前記のとおりハナアヤメといって花をかんしていたが、ショウブに対するアヤメの名がすたれた後は、単にアヤメと呼ぶようになり、これが今日こんにちの通称となっている。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
頃来このごろ書肆駸々堂主人一小冊を携えて来り、居士に一言をかんせん事を望む、受て之をけみすれば、即ち三遊亭圓朝氏のえんぜし人情談話にんじょうばなし美人びじん生埋いきうめを筆記せるものなり。
松の操美人の生埋:01 序 (新字新仮名) / 宇田川文海(著)
探偵小説めいた名をかんしてそろそろセンセイションになりかけていた——がその多くの共通点に関係なく、すべて独立の過失で、その間なんらの連鎖もないということは
浴槽の花嫁 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
富士をかんした相州連山の御国山みくにやまから南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林ぼうふうりんの高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
新にもくする者は必ずかんだんし、新に浴する者は必ず衣を振うとは、身を重んずるのいいなり。我が身、金玉なるがゆえに、いやしくも瑕瑾かきんを生ずべからず、汚穢おわいに近接すべからず。
徳育如何 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
晩年こそ謹厳いやしくもされなかった大御所おおごしょ古稀庵こきあん老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県のやり踊りの名さえ残した時代、上流の俊髦しゅんぼう前光卿は沐猴もくこうかんしたのは違う大宮人おおみやびと
柳原燁子(白蓮) (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その雑銘を読めば、かんたいより、すい[#「箠」は底本では「※」]、あんれんしゃ等に至る、各物一々にとう日新にっしんの銘にのっとりて、語を下し文をす、反省修養の意、看取すべし。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
これが最初さいしよ部分ぶぶん初期微動しよきびどうとてかんせられる所以ゆえんである。さうして主要動しゆようどう大地震だいぢしん場合ばあひおいて、破壞作用はかいさようをなす部分ぶぶんたることは説明せつめいせずともすで了得りようとくせられたことであらう。
地震の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
ところがそういうむだに近い物に限って、消費を刺戟しげきするために文化だの改良だのという文字をかんしている。人が警戒する方が当り前で、広告が信用の無いのにも理由があるのである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
裏の木戸口をへだてにて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我おいたりとかんけて幕のうちひそみたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ウォードの著わした社会学の標題には力学的ダイナミックという形容詞をわざわざかんしてあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
銀杏は黄葉こうようの頃神社仏閣の粉壁朱欄ふんぺきしゅらんと相対して眺むる時、最も日本らしい山水をす。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の公孫樹こうそんじゅ中のかんたるものといわねばならぬ。
「一禅寺ぜんでらに、暦応の年号をうたうなども、以てのほかな僭上だ。ゆらい年号を寺名にかんする寺は、国家第一の比叡山延暦寺えんりゃくじのごとき勅願寺のほかは、ゆるさるべきものではない」
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
忠信 以てかんと為し
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)