広漠こうばく)” の例文
旧字:廣漠
あるひはだいなる夜泊やはくの船の林なすほばしらあいだに満月を浮ばしめ、その広漠こうばくたる空に一点あるかなきかの時鳥ほととぎす、または一列の雁影がんえいを以てせよ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
満洲の広漠こうばくたる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははっきりとしないが、広漠こうばくたる空間を横切る新しい女の幻影がひらめいた。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
これから語ろうとする詳しい話のなかで、私のために、広漠こうばくとした罪過の砂漠のなかにいくつかの小さな宿命のオアシスを、捜し出してもらいたいのだ。
わが魂は人跡いたらぬ森林と広漠こうばくたる草原とに飛ぶ。万物みな美である。はえは光のうちを飛び、太陽に蜂雀ほうじゃくはさえずる。わが輩を抱け、ファンティーヌ!
石狩の大平原につらなる白楊の木と、牛の飼料を貯蔵しておく石造の塔の眺めは広漠こうばくとしていい。ああいう荒涼たる風景はもとよりここではのぞまれない。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そしてそれらの真実な幻像は、彼女にあっては、架空的な追憶が加わるために変形されてしまった。彼女はそういう広漠こうばくたる世界のうちにおぼれる気がした。
橋本と余と荷物とは、この広漠こうばくはたけの中を、トロに揺られながら、まぶしそうに動いた。トロは頑丈がんじょうな細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば差支さしつかえない。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
同時に西比利亜シベリアの無限の富、驚くべき広漠こうばくなる不毛の土地もひとしく世界に開いて、種々の法令を設けて外国の事業家を妨げるということを禁ずることが必要である。
東亜の平和を論ず (新字新仮名) / 大隈重信(著)
沢山たくさんの短いトンネルと雪けの柱の列が、広漠こうばくたる灰色の空と海とを、縞目しまめに区切って通り過ぎた。
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
やがて天塩てしおに入る。和寒わっさむ剣淵けんぶち士別しべつあたり、牧場かと思わるゝ広漠こうばくたる草地一面霜枯しもがれて、六尺もある虎杖いたどりが黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地でいたんちである。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
中国はその広漠こうばくたることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江ようすこう黄河こうがはそれぞれ地中海とバルト海である。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
一つの風景を、もやのふかい空のもとにある、しめった、肥沃ひよくな、広漠こうばくとした熱帯の沼沢地を、島と泥地でいちどろをうかべた水流とから成っている、一種の原始のままの荒蕪こうぶ地を見た。
劫初ごうしょ以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱おううつの大森林、広漠こうばくとしてロシアの田園をしのばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は
初めて見たる小樽 (新字新仮名) / 石川啄木(著)
さすがに相沢のことを偽りなりともいいがたきに、もしこの手にしもすがらずば、本国をも失い、名誉をきかえさん道をも絶ち、身はこの広漠こうばくたる欧州大都の人の海に葬られんかと思う念
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
大洋の中にいると同様に、わたしたちの日は遠い秋霧あきぎりの中に消えている地平線までとどいていた。ひたすら広漠こうばく単調たんちょうが広がっている灰色はいいろの野のほかに、なにも目をさえぎるものがなかった。
しかし、練達な彼がぐっとつかえ、語尾が消えるようにかすれてしまったのだ。拳銃が……無意味な銃口をむけている。やがて、あごでぐいぐい引かれて森をでると、したは、広漠こうばくたる盆地になっている。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
精神がかけり回って迷い込むような、広い地平線や広漠こうばくたる平野は少しもなかった。灰色の眼をし、褪緑たいりょく色の衣をつけ、繊細なきっぱりした顔つきの河であった。
愛にきよめられた二つのくちびるが、創造のために相接する時、その得も言えぬくちづけの上には、星辰せいしん広漠こうばくたる神秘のうちに、必ずや一つの震えが起こるに相違ない。
そして、階段を上がって、パッと眼界がひらけたとき、そこに広漠こうばくたる別の世界があるのです。東京の現実の町を無視して、見渡すかぎりの大平原や大海原おおうなばらがあるのです。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そのベランダへ出ると、明るい灝気こうきがじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科のむねや、石炭貯蔵所から、裏門のかきをへだてて、その向うは広漠こうばくとした田野であった。
秋日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
生の気配が見えなかった。線のぼやけた無形の広漠こうばくさだった。すべてが雪の下に眠っていた。ただきつねだけが夜の森の中に鳴いていた。ちょうど冬の終わりだった。
枯れた雑草が風に吹かれてすみやかにわきを飛んでいったが、何か追っかけてくるものを恐れて逃げてゆくがようだった。どこを見ても、ただ広漠こうばくたる痛ましいありさまだった。
彼にとっては一度妻の脳裏をかすめたイメージは絶えず何処どこかの空間に実在しているようにおもえた。と同時にそれは彼自身の広漠こうばくとして心をそそる遠い過去の生前の記憶とも重なり合っていた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
広漠こうばくたる別世界を創作しようと試みたものに相違ないのだ
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
また、どろで赤く濁ってあたかも土地が歩き出してるようなテヴェレ河のほとり——大洪水だいこうずい以前の怪物の巨大な背骨みたいな溝渠こうきょ廃址はいしに沿って、広漠こうばくたるローマ平野の中をさまようた。
広漠こうばくたる自然も昔は、種々の姿や光や声や忠言や遠景や地平や教訓に満ち満ちていたが、今はもう彼の前にむなしく横たわってるのみだった。すべてが消えうせたように彼には思えた。
船は暴風雨の下に揺られながらみずからの運転に意を注ぎ、水夫と乗客との目にはもはやおぼるる男の姿は止まらない。彼のあわれなる頭は、広漠こうばくたる波間にあってただの一点にすぎない。
彼は今や、年老いて彼の思想には無関心な母親——彼を愛してばかりいて理解してはいない母親と、ただ二人きりであった。彼の周囲は、広漠こうばくたるドイツの平野、陰鬱いんうつなる大洋であった。
人の心をふくらす熱を、民族の本能的な運命的な伸長力を、幾百万の人を従属させ軍勢を死へ突進せしむる、世界の帝王たる律動リズムの勝利を、合唱を伴う広い交響曲シンフォニーに、広漠こうばくたる音楽の風景画に
そのもやの中には広漠こうばくたるうねりがあり、まばゆきばかりの幻影があり、今日ほとんど知られない当時の軍需品があって、炎のような真紅しんくの毛帽、揺らめいている提嚢ていのう、十字の負い皮、擲弾用てきだんよう弾薬盒だんやくごう
永劫えいごう広漠こうばくを、じっとながめ、そして「皇帝万歳!」を叫んだ。