出雲いづも)” の例文
私達は出雲いづも地方までゆかないうちに、ずつと大昔からの言傳へが、こんなところにも殘つてゐるのかと、先づそのことに驚かさる。
山陰土産 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
ここに出雲いづもくにみやつこの祖、名は岐比佐都美きひさつみ、青葉の山をかざりて、その河下に立てて、大御食おほみあへ獻らむとする時に、その御子詔りたまはく
これはくだかたちをした筒形つゝがたたまでありまして、そのながさは一寸前後いつすんぜんごのものが普通ふつうです。いしはみな出雲いづもから碧玉へきぎよくつくつてあります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
「家ゆ出でて三年がほどに」、「痛足あなしの川ゆ行く水の」、「野坂の浦ゆ船出して」、「山の出雲いづもの児ら」等の用例がある。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
由緒がきによれば、祭神は大国魂の神、天孫降臨に際し国土を瓊瓊杵尊ににぎのみことに献つて出雲いづも杵築きづきの大社に鎮座したまふたことは世人の知るところである。
府中のけやき (新字旧仮名) / 中勘助(著)
足名椎は彼等夫婦の為に、出雲いづもの須賀へ八広殿やひろどのを建てた。宮は千木ちぎ天雲あまぐもに隠れる程大きな建築であつた。
老いたる素戔嗚尊 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
滅多めつたに外へ出る折もなく、町内の錢湯や、髮結ひ、きまつた道順の稽古事けいこごと、年に精々一度の芝居遊山が、人樣に顏を見られる機會で、出雲いづもの神樣が、この折を狙つて
ことに出雲いづも關係かんけいふかい、名高なだかかたのおさくだ、としんじられたものにちがひはなからう、とかんがへてゐます。
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
(床の間の畫像をみかへる)門左衞門先生が御在世の時は勿論、又そのあとを受け繼いで出雲いづも松洛しようらくが「忠臣藏ちゆうしんぐら」や「菅原すがはら」をかいた頃は、操りは繁昌の絶頂であつた。
近松半二の死 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
品にさきだつて綱宗に仕へた初子は、其世系せいけいが立派である。六孫王経基つねもとの四子陸奥守満快むつのかみまんくわいの八世の孫飯島三郎広忠ひろたゞ出雲いづもの三沢を領して、其曾孫が三沢六郎為長ためなが名告なのつた。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
もと二二出雲いづもの国松江のさと生長ひととなりて、赤穴宗右衛門あかな(そうゑもん)といふ者なるが、わづかに二三兵書へいしよむねあきらめしによりて、二四富田とみたの城主二五塩冶掃部介えんやかもんのすけ、吾を師として物まなび給ひしに
これを本朝弓道の中祖、斯界の人々仰がぬ者なく、日置流より出て吉田よしだ流あり、竹林ちくりん派、雪荷せっか派、出雲いづも派あり、下って左近右衛門さこんえもん派あり、大蔵おおくら派、印西いんざい派、ことごとく日置流より出て居るという。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
出雲いづもの墓11・1(夕)
かれ出雲いづもに到りまして、大神おほかみを拜みへて、還り上ります時に、の河一八の中に黒樔くろすの橋一九を作り、假宮を仕へまつりて、さしめき。
出雲いづもくにあたりから碧玉へきぎよくといふ青黒あをぐろいしもちひられ、さらにのちになると、あか瑪瑙めのう普通ふつう使つかはれるようになりました。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
また出雲娘子いずものおとめを吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲いづもの児等は霧なれや吉野の山のみね棚引たなびく」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
人民じんみんいへなどはたいていやはりむかしのまゝのかたちつくられたとおもはれますし、ことに伊勢大神宮いせだいじんぐう出雲いづも大社たいしやのような神社じんじや
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここにたたりたまふは、出雲いづもの大神の御心なり。
八雲やくもさす出雲いづも子等こら黒髪くろかみ吉野よしぬかはおきになづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
くもむらがり立つ出雲いづものタケルが腰にした大刀は