長崎ながさき)” の例文
「ええ、お出迎えにこれまでまいりましたのは、丹那たんな田代たしろ軽井沢かるいざわはた神益かみます浮橋うきばし長崎ながさき、七ヶ村の者十一名にござりまする」
丹那山の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
私は、長崎ながさきの石畳の多い旧波止場で、義父が支那人の繻子しゅす売りなんかと、店を並べて肩肌かたはだ抜いで唐津のせり売りしているのを思い出した。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ちょうどそのとき、中津なかつからくろがね惣兵衛そうべえという商人しょうにん長崎ながさきにきていて、用事ようじがすんだので、中津なかつへかえることになっていました。
こっそりと長崎ながさきへくだって、きょうが日までの丸四年、死に身になって医業を励み、どうにかこうにか一人まえの医者となって
案内者あんないしやがついてゐます。御串戲ごじやうだんばかり。……洲崎すさき土手どてあたつたつて、ひとふねせば上總澪かづさみをで、長崎ながさき函館はこだてわた放題はうだい
深川浅景 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
まだ信長の世に時めいていたころは、長崎ながさき平戸ひらどさかいなどから京都へあつまってきた、伴天連バテレン修道士イルマンたちは、みなこの南蛮寺なんばんじに住んでいた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ささげて来た朝鮮王李※りえんの国書は江戸へ差し出した。次は上々官金僉知きんせんち朴僉知ぼくせんち喬僉知きょうせんちの三人で、これは長崎ながさきで造らせた白木の乗物に乗っていた。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
学校が休みになると彼は毎年行くことにしている、長崎ながさきのお寺で一夏を過ごすのも長年の習慣であった。彼は庸三と大抵同じくらいの年輩らしかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
しかし、その前に「日本における三年間」の大体を紹介するために、サア・オルコツクのはじめて長崎ながさきへはいつた時の印象を披露ひろうすれば、ざつとしものとほりである。——
日本の女 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
おいらァ、このみちへかけちゃ、江戸えどはおろか、蝦夷えぞ長崎ながさきはてっても、ひけはらねえだけの自慢じまんがあるんだ。ねえ、かみはこのとおり、一ぽんのこらずきてるんだから。……
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
向島むかうじま武蔵屋むさしや落語らくごくわい権三ごんざますと、四方よも大人うしふでにみしらせ、おのれ焉馬えんば判者はんじやになれよと、狂歌きやうかの友どち一ぴやく余人よにん戯作げさくの口を開けば、遠からん者は長崎ながさきから強飯こはめしはなし、近くば
落語の濫觴 (新字旧仮名) / 三遊亭円朝(著)
これは九州きうしう長崎ながさき
どんたく:絵入り小唄集 (新字旧仮名) / 竹久夢二(著)
諭吉ゆきち長崎ながさきへきてから、一ねんあまりたったときでした。中津なかつ藤本元岱ふじもとげんたいという、医者いしゃをしているいとこから、とつぜん手紙てがみがとどきました。
長崎ながさき表に根城を構えて、遠くは呂宋るそん天竺てんじくあたりまでへもご法度はっとの密貿易におもむく卍組まんじぐみの一味にござりました。
オルガンチノは伊太利イタリア生れの伴天連ばてれんだった。平戸ひらど長崎ながさきあたりはいうまでもなく、さかい安土あづち、京都、畿内きないのいたる処にも無数の宣教師が日本に渡っていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
長崎ながさきあたりの村々には、時々日の暮の光と一しょに、天使や聖徒の見舞う事があった。
おぎん (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
だが、長崎ながさきからここにくるには、中津なかつによってくるのがみちのじゅんというものだ。それを、おまえはおかあさんのおられる中津なかつをよけてきた。
例外として、「奉教人ほうけうにんの死」と「きりしとほろ上人しやうにん伝」とがその中に這入はいる。両方とも、文禄ぶんろく慶長けいちやうの頃、天草あまくさ長崎ながさきで出た日本耶蘇やそ会出版の諸書の文体にならつて創作したものである。
風変りな作品に就いて (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
大坂おおさか長崎ながさき、名古屋なぞと地名を書いた穴を設け、上からころがした玉が、くぎの障害物に当たっては当たり、当たっては当たって、あちらへころがり、こちらへ突き当たりながら
現にわたしは三四年前にもやはりこう云う憂鬱に陥り、一時でも気をまぎらせるためにはるばる長崎ながさきに旅行することにした。けれども長崎へ行って見ると、どの宿もわたしには気に入らなかった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)