鉄漿おはぐろ)” の例文
旧字:鐵漿
そうして、突かれた紙帳は、おとなしく内側へ萎み、裾が、ワングリと開き、鉄漿おはぐろをつけた妖怪の口のような形となり、細い白い手が出た。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
三十二というにしては恐ろしく若く、色白の無造作な化粧、鉄漿おはぐろもつけず、眉も落さないのが、反ってこの女を新鮮に見せるのでしょう。
婆さんは鉄漿おはぐろのはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
文字どおりな鉄漿おはぐろの使い水や、風呂のあかや、台の物の洗い流しや、あらゆる廓の醜悪がこの下水へ流れこんで、どす黒い泡を立てていた。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
其の次の段には、燭台だのお膳だの鉄漿おはぐろの道具だの唐草の金蒔絵をした可愛い調度が、此の間姉の部屋にあったいろ/\の人形と一緒に飾ってある。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
女将かみさんは返事をする準備として、とりあえず取って付けたようにおびえた顔をした。この辺には珍らしく眉を剃って鉄漿おはぐろをつけているからトテモ珍妙だ。
山羊髯編輯長 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
追従笑ついしょうわらいの大口を開くと歯茎が鼻の上まではだけて、鉄漿おはぐろげた乱杭歯らんぐいばの間から咽喉のどが見える。おびえたもんですぜ。
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
男の覗いていたのはある有名な古物商の陳列窓で、そこの中央にはよしありげな邯鄲かんたん男の能面が鉄漿おはぐろの口を半開にして、細い目で正面を睨んでいたという。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「母さん、判りました、判りました。漸く虹蓋の秘法が判りました。鉄漿おはぐろです、あ、あの苦い鉄漿だつたのです」
名工出世譚 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
染めんとするも、ドウしても鉄漿おはぐろが付かぬ。しかるに、死人を焼きたる火にて鉄漿をとかせばよく染まると聞いて、昼は人目をはばかり、夜中ここに来たって歯を
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
うすい鉄漿おはぐろあとが……。で、たぶん鉄漿かねをつけている女が袂から手拭を出したときに、ちょいと口にくわえたものと鑑定して、おはぐろの女ばかり詮議したわけです。
顴骨ほほぼねの高い、疲労の色を湛へた、大きい眼のどんよりとした顔に、唇だけが際立つて紅かつた。其口が例外なみはづれに大きくて、欠呻あくびをする度に、鉄漿おはぐろの剥げた歯が醜い。
刑余の叔父 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
その——いやに紫ずんでいて、そこには到底、光も艶もうけつけまいと思われるような歯齦はぐきだけのものが、銅味あかみに染んだせいかドス黒く溶けて、そこが鉄漿おはぐろのように見える。
絶景万国博覧会 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
遺伝は、結婚したら鉄漿おはぐろをつけると云う。上海プノンペン間を商用にて往来する父にカンボジヤ国より檳榔子ばあむの実を土産に買ってきてもらう。霖雨りんうの来らんことをたえず願う。
新種族ノラ (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
黒々と鉄漿おはぐろを附けた、割合にけた顔で、これが友の妻とすぐ感附いた自分は、友の姿の小さく若々しいのに比べて、いかにこの妻の丈高く、体格の大きいかといふ事に思ひ及んだ。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
自分たちの子供の時分には既婚の婦人はみんな鉄漿おはぐろで歯を染めていた。祖母も母も姉も伯母おばもみんな口をあいて笑うと赤いくちびるの奥に黒耀石こくようせきを刻んだように漆黒な歯並みが現われた。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
鉄漿おはぐろ黒々くろぐろと、今朝けさめたばかりのおこののは、かたみぎたもとんでいた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
山伏が祈祷きとうをすれば人——もしくは鬼——の口の中にでもはいることができる、というのが前句の表面の意味、鉄漿おはぐろさえつければ人の歯は黒くなるというのが後句の表面の意味でありますが
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
鉄漿おはぐろとんぼに
十五夜お月さん (旧字旧仮名) / 野口雨情(著)
それに鉄漿おはぐろの跡がある。で半七は断定した。「鉄漿をつけた或る女が、手拭の端を口でわえ、それで子供を絞殺したのだ」
半七雑感 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「あ……そ、それですか。それはあの……何でもございません。鉄漿おはぐろを解く時に、指を入れて、汚したまま、つい拭きもせずに置きましたので」
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
父親はそうでもなかったけれど、草鞋わらじの音の、その鉄漿おはぐろの口は蛇体や、鬼でしたぞね。それは邪慳じゃけん慾張よくばりや。
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
鉄漿おはぐろなどと云う化粧法が行われたのも、その目的を考えると、顔以外の空隙へ悉く闇を詰めてしまおうとして、口腔へまで暗黒を啣ませたのではないであろうか。
陰翳礼讃 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
町の女房らしい二人づれが日傘を持って這入って来た。彼らも煙草入れを取出して、鉄漿おはぐろを着けた口から白い煙を軽く吹いた。山の手へ上って来るのは中々草臥くたびれるといった。
二階から (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
葛籠つづらの類、古めかしい陶器類、それらに混って、異様に目をきますのは、鉄漿おはぐろの道具だという、巨大なおわんの様な塗物ぬりもの、塗りだらい、それには皆、年数がたって赤くなってはいますけれど
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
呟きながら、横へさした黄楊つげくしで、洗い髪の毛の根を無性に掻きながら、黒曜石こくようせきの歯をならべた鉄漿おはぐろくちから、かすかな舌打ちをもらしていた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし、やがて、紙帳の裾が、鉄漿おはぐろをつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る爬虫類ながむしかのように、痩せた身長せいの高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私はさっき鉄漿おはぐろのことを書いたが、昔の女が眉毛を剃り落したのも、やはり顔を際立たせる手段ではなかったのか。そして私が何よりも感心するのは、あの玉虫色に光る青い口紅である。
陰翳礼讃 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
今度は少し仰向あおむけになったと思うと、お母さんの白い指が、雪の降止もうとするように、ちらちらと動いた、——自棄やけ鉄漿おはぐろの口が臭くってそいつを振払った、と今の私なら言うんだが
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿おはぐろを着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へのぼって来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河ひらかわの天神さまへも参詣して行こうと云った。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
笑う時は、少し身を斜めにして、美しく染めたくち鉄漿おはぐろへ、銀杏形いちょうがた扇子せんすを当てて笑うのが、彼のいつもする癖だった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「なに、知らないことがあるもんですか」と、女房は鉄漿おはぐろの歯をむき出した。
半七捕物帳:29 熊の死骸 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あの通船楼の若いおかみさんの鉄漿おはぐろがまたどこかでわらっているような気がするのだった。
春の雁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「斬ると、こんなに、爪の色が、鉄漿おはぐろを塗ったように、真ッ黒になるものですか」
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
髪は公卿風くげふうの総髪にい、歯には鉄漿おはぐろを黒々と染め、鼻下にひげを蓄えている。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「それはもう……」と、お久良は愛嬌のある口元から、鉄漿おはぐろつやを見せて
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
くすぐったそうに、通船楼のおかみさんは笑った。闇の中でも鉄漿おはぐろは光った。
春の雁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)