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殷
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いん
ふりがな文庫
“
殷
(
いん
)” の例文
夏
(
か
)
は
桀
(
けつ
)
王にいたって無道であったため、
殷
(
いん
)
の
湯
(
とう
)
王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。
現代訳論語
(新字新仮名)
/
下村湖人
(著)
例えば
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
、生蕃軍、
玉藻前
(
たまものまえ
)
、○○侯等の暴虐の図、又は普通の美人や少年などに血をあしらった場面等の注文が次第に殖えて来た。
東京人の堕落時代
(新字新仮名)
/
夢野久作
、
杉山萠円
(著)
悪来というのは、昔、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
の臣下で、大力無双と名のあった男である。曹操がそれにも
勝
(
まさ
)
ると称したので、以来、典韋の
綽名
(
あだな
)
になった。
三国志:03 群星の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
周
(
しゅう
)
の武王が臣の身として、君主であった
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
を討ったのさえ、天の命ずるところにしたがい、民の与望にこたえれば、事は
成就
(
じょうじゅ
)
し、天は認めて
雨月物語:02 現代語訳 雨月物語
(新字新仮名)
/
上田秋成
(著)
儒者の
山崎闇斎
(
やまざきあんさい
)
は、シナの歴史にある有名な革命史実を嫌らつて、
殷
(
いん
)
の
湯王
(
とうおう
)
が、
夏
(
か
)
の
桀王
(
けつおう
)
を放逐したり、周の武士が殷の
紂王
(
ちゅうおう
)
を討つた革命を非難し
天皇:誰が日本民族の主人であるか
(新字新仮名)
/
蜷川新
(著)
▼ もっと見る
(一)
子張
(
しちょう
)
問う、
十世
(
じゅっせい
)
知るべきか。子曰く、
殷
(
いん
)
は夏の礼に
因
(
よ
)
る、損益するところ知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益するところ知るべきなり。
孔子
(新字新仮名)
/
和辻哲郎
(著)
殷
(
いん
)
の王朝が、
中原
(
ちゅうげん
)
に進出した背後の勢力は東方にあった。いわゆる
東夷
(
とうい
)
の海の営みの中で、今でもすでにほぼ明かになっているのは、宝貝の供給であった。
海上の道
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
殷
(
いん
)
鑑
(
かん
)
遠からず、支那第一次の革命はその形式に於て共和政治を獲得することが出来た。満州朝廷は
覆
(
くつが
)
えされて、支那は中華民国という名を見るようになった。
日支親善策如何:――我輩の日支親善論
(新字新仮名)
/
大隈重信
(著)
お名まえは夏の
禹王
(
うおう
)
よりも高く聞え御徳は
殷
(
いん
)
の
湯王
(
とうおう
)
よりもまさつているというべきであります。
古事記:03 現代語訳 古事記
(旧字新仮名)
/
太安万侶
、
稗田阿礼
(著)
周
(
しゅう
)
の
武王
(
ぶおう
)
が
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
を
伐
(
う
)
たんと出征したとき、民みな
武王
(
ぶおう
)
の意を迎えたが、
伯夷叔斉
(
はくいしゅくせい
)
のみは独立行動に
出
(
い
)
でて、
武王
(
ぶおう
)
の馬を
叩
(
たた
)
いて
諫
(
いさ
)
めた。左右の者ども両人を
兵
(
へい
)
せんとした。
自警録
(新字新仮名)
/
新渡戸稲造
(著)
また、周の
武王
(
ぶおう
)
は
甲子
(
きのえね
)
をもって興り、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
は甲子をもって亡ぶといえる話がある。
迷信解
(新字新仮名)
/
井上円了
(著)
そのうちわたしはまたシナの
国
(
くに
)
に
渡
(
わた
)
って、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
というもののお
妃
(
きさき
)
になりました。
殺生石
(新字新仮名)
/
楠山正雄
(著)
……
徒然
(
つれづれ
)
の折には、村年寄僧侶などさえお手近く召し寄せられ、囲棋のお遊びなどあり、打ち興ぜさせたもう有様、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
にも勝れる暴君よなど、噂せられたまいし面影更に見え給わず。
忠直卿行状記
(新字新仮名)
/
菊池寛
(著)
今この国の
政治
(
まつりごと
)
を執っている
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
は
妲己
(
だっき
)
という妖女にたぶらかされて、夜も昼も淫楽にふける。まだそればかりか、妲己のすすめに従って、
炮烙
(
ほうらく
)
の刑という世におそろしい刑罰を作り出した。
玉藻の前
(新字新仮名)
/
岡本綺堂
(著)
...
臣
(
しん
)
を
以
(
もつ
)
て
君
(
きみ
)
を
弑
(
し
)
す、
仁
(
じん
)
と
謂
(
い
)
ふ
可
(
べ
)
けんや』と。
(三〇)
左右
(
さいう
)
(三一)
之
(
これ
)
を
兵
(
へい
)
せんと
欲
(
ほつ
)
す。
(三二)
太公
(
たいこう
)
曰
(
いは
)
く、『
此
(
こ
)
れ
義人
(
ぎじん
)
也
(
なり
)
』と。
扶
(
たす
)
けて
去
(
さ
)
らしむ。
武王
(
ぶわう
)
已
(
すで
)
に
殷
(
いん
)
の
亂
(
らん
)
を
平
(
たひら
)
げ、
天下
(
てんか
)
、
周
(
しう
)
を
(三三)
宗
(
そう
)
とす。
国訳史記列伝:01 伯夷列伝第一
(旧字旧仮名)
/
司馬遷
(著)
殷
(
いん
)
は
紂
(
ちゅう
)
王にいたって無道であったため、周の武王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。——
現代訳論語
(新字新仮名)
/
下村湖人
(著)
あなたは、誰かへ書いて与えた詩に、亀山城の北にある
愛宕山
(
あたごやま
)
を、
周山
(
しゅうざん
)
に
擬
(
なぞ
)
らえ、御自身を周の武王に比し、信長公を
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
となしたようなことはありませぬか
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
孤竹国君
(
こちくこくくん
)
の二子で、周の武王が
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
を伐とうとした時に、これを諌めて用いられず、周の
粟
(
ぞく
)
を食むのを潔しとせずして首陽山にかくれ、蕨を採つて食つていたが
論語物語
(新字新仮名)
/
下村湖人
(著)
むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なお
殷
(
いん
)
に仕えていたので、孔子も周の徳を至徳だとたたえられた。これあくまで君を冒さず、臣は臣たるの道である。
三国志:07 赤壁の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
殷
(
いん
)
の時代は
夏
(
か
)
の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。
現代訳論語
(新字新仮名)
/
下村湖人
(著)
由来、天道に
反
(
そむ
)
いて、栄えた者はありません。むかし周公は、
后稜
(
こうしょく
)
から文王におよぶまで、功を積み徳をかさねましたが、なお天下の一部をもち、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
にすら仕えていました。
三国志:04 草莽の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
昔、
殷
(
いん
)
の
太甲
(
たいこう
)
無道
(
むどう
)
でありしため、
伊尹
(
いいん
)
これを
桐宮
(
とうきゅう
)
に放ち、漢の
昌邑
(
しょうゆう
)
が王位に登って——
三国志:02 桃園の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
(そちは、
殷
(
いん
)
の
紂王
(
ちゅうおう
)
に従っていた悪来にも劣らぬ者だ)
三国志:04 草莽の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“殷”の解説
殷(いん、Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国大陸にあった王朝。考古学的に実在が確認されている中国大陸最古の王朝である。殷代、商(しょう、Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。
文献によれば、天乙(湯王)が夏(の桀王)を滅ぼし建立したとされる(紀元前16世紀以前)。紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。
(出典:Wikipedia)
殷
漢検1級
部首:⽎
10画
“殷”を含む語句
殷賑
殷々
殷盛
殷富
殷鑑
殷紅
殷紂
殷懃
殷馗
夏殷
殷鑒
殷紅色
殷直閣
殷昌
殷墟
殷周
殷勤
殷々闐々
梅殷
政殷
...