くわ)” の例文
朝家を出るとき敷島を口にくわえ、ひらりと自転車に乗るときのゆったりした高次郎氏の姿を私の見たのは一度や二度ではなかった。
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
直衛は座をすべり、懐紙を口にくわえて、静かに刀を抜いた。さやを左に置き、刀を垂直に立ててその切刃を見た。切先きっさきから鍔元つばもとまで。
改訂御定法 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼女らの指につれて、人々は、まぶしそうな眼をみな帆柱の上へやった。暗褐色の小さい怪物が、銀の鎖をくわえて、そこに、丸まッていた。
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが彼は指を口にくわえたまま足元ばかり眺めていた。何だかすっきりした安堵もあるのだろうか。口元が今にもほころびそうにさえ思われた。
光の中に (新字新仮名) / 金史良(著)
彼女は犬にくわえられた鳥のように暴れ回った。黒い服の仲間は銀色に光る長い棒をがちゃがちゃさせながら、幾人も寄ってきた。
猟奇の街 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
ことに懸巣の眼は円くて睨み続けているように美しい、何時か眉の毛を一本籠の中に入れたら、すぐ下りて来てくわえた程眼が利くのである。
人真似鳥 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
稲妻いなずまの如く迅速に飛んで来て魚容の翼をくわえ、さっと引上げて、呉王廟の廊下に、瀕死ひんしの魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐かいがいしく介抱かいほうした。
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
蒲原にタバコをとらせ、自分もくわえ、火をつけて、煙をふかく吸いこみながら、なおカンヴァスから目をはなさずにいたミチェンコは、突然
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
目は開いてはいられず、動悸がはげしく打って、重病人になったような気がしてならなかった彼はゴム管をくわえて、水を吸う元気さえなかった。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
オランダの名オルガニスト、ラインケンの演奏を聴くために、餓えて窓の下に立ったバッハが、金貨をくわえたにしんを拾ったのは十五歳の時であった。
と、一疋いっぴきの大きな猫がどこから来たのかつうつうと入って来て、前の膳の上に乗っけてあった焼肴やきざかなの残り肴をくわえた。
皿屋敷 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
健康で(あの男がカツレツの中の軟い骨をぱり/\と咬み砕き、酒のはいったコップを貪るように赤い脣でくわえた様子を、俺は今でもちゃんと覚えている)
のう悲しやと喚くやら秘蔵の子猫を馬ほどに鼠がくわえて駈け出すやら屋根ではいたちが躍るやら神武以来の悋気りんき争い
右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口にくわえた私は、そんなに息切れもしないうちに、グングンと追跡者を引き離してしまいました。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
湿した唇をくわえ、眼をすえて構えている。握りしめた手には静脈がふくれ上って、どくっどくっと血が流れた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
しかしそれを善い事にして、くわ楊枝ようじで暮さんとする夫ありとせば、言語道断沙汰さたの限りである。
夫婦共稼ぎと女子の学問 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
あれは曲輪くるわの重ね餅、指をくわえてエエくやしい、とこんなに言いはやしている位の仲でござりますゆえ、今も六兵衛どんにそれとなく聞きただして見たのでござりまするが
すかさず追蒐おっかけて行って、又くわえてポンとほうる。其様そん他愛たわいもない事をして、活溌に元気よく遊ぶ。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
まさか野良犬がくわえて行ったのでもあるまいがというので色々調べて見ましたら既に車庫に廻されていたその轢いた電車の車輪の一つを、そのてのひらだけの手袋のような手で
(新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
途中で故障にでもなった場合に修理に必要な知識がなかったらそれっきりである。ただ指をくわえて見ているよりほかに仕方がなくなる。出来ればそんな不始末のないようにもしてやりたい。
木挽町こびきちょう五丁目辺の或る待合まちあいへ、二三年以前新橋しんばし芸妓げいぎ某が、本町ほんちょう辺の客をくわえ込んで、泊った事が有った、何でも明方だそうだが、客が眼を覚して枕をもたげると、坐敷のすみに何か居るようだ
枯尾花 (新字新仮名) / 関根黙庵(著)
と、いいながら指をくわえてぴゅーと一声口笛を吹いた。
羽子板を犬くわへ来し芝生しばふかな
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
パイプをくわえるもの
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
こんどは自分から立っていって薄暗い厨房ちゅうぼうの調理台にあった兎のももみたいなあぶり肉を右手に一本つかみ、それを横へくわえかけた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
老人はタバコを一本抜いて口にくわえ、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
が、老探偵の歩調は、だんだんゆるくなっていった。彼の口には、いつの間にかマドロス・パイプがくわえられていた。
断層顔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
玄竜はようやく三叉に岐れたところまで出て来ると、ゆっくり「みどり」を一本取り出してくわえ、辺りを見廻しつつ不機嫌そうに何かをぶつくさ呟いた。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
私はすこし変な気がしてくると巻煙草まきたばこを口にくわえた。歯の間がすくと息がぬけるので、涙ぐむようなことがなかった。——墓地は、田端の大龍寺にした。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
これはまた、相手の堀に唇をくわえさせた。少しも理解されない彼の本意を、この上説こうともしなかった。彼らの関係がぷすッと切れた、そんな気がした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
「はい。お、お、落ちていました。そして、ど、ど、ど、どこかの犬がくわえて歩いていましたから、そ、そ、それを取り返して、ま、ま、窓へかけておいただけです」
錯覚の拷問室 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
そのときふと私はその四五日前に見た、加藤家の半白の猫が私の家のうさぎの首をくわえたと見る間に、垣根かきねくぐりり脱けて逃げた脱兎だっとのような身の速さを何となく思い出した。
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
と、其処に草鞋虫わらじむしの一杯依附たかった古草履の片足かたしか何ぞが有る。い物を看附けたと言いそうなかおをして、其をくわえ出して来て、首を一つると、草履は横飛にポンと飛ぶ。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
八五郎の顔、——獲物をくわえた猟犬のような顔を見ると、平次はそっと物蔭に呼びました。
何か考えごとをしているようにゆっくりマッチをすってくわえているタバコに火をつけ、手首をやっぱりゆっくりと動かしてそのマッチを消し、やがて、気をとり直したように
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口にくわえ、千に一つも受け損ずる事は無い。
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅をくわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
東風こちの顔くわ煙管ぎせるの煙飛び
七百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
と、木剣が一つ、犬のかたい頭に石を打ったような音をさせると、猛犬は、城太郎の背へかぶりつき帯をくわえて、彼の体を振り飛ばした。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
老人はタバコを一本抜いて口にくわえ、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「ほう、君の手に持っているのは、映画台本なのかネ」検事はパイプを口にくわえたまま、帆村の方に近よった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ひょいと見ると、かれの正面の××館の看板絵にもなまなましいペンキ絵の女の顔が、するどく光った短刀をくわえて、みだれた髪のまま立っているのであった。
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
唇をくわえて、——そのとき、旗章も太陽もすっかりち、ずいと湧きあがって来た黒い夜を見ていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
新吉の顔にはおおい切れない得意の色がみなぎります。ガラッ八の八五郎は、指をくわえて引下がるほかはありません。蜘蛛の習性に通じなかったのが何としても八五郎の手ぬかりです。
返事がないので変だと思って怪訝けげんそうに入口を覗き込んだ爺は、われ知らず小屋の壁へぴったり体をすり附けた。婦が子供に乳首をくわえさせて半裸体のまま横様よこざまに寝ているのだ。
土城廊 (新字新仮名) / 金史良(著)
そして、無意識な手つきでからのパイプを口にくわえた。伸子は、窓の前をゆっくり行ったり来たりしはじめた。窓からは、広く暗いネヷの面を越して対岸の街燈が淋しくまばらに見えている。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
私は、果してそれを、口にくわえて吸うのかしら、と錯覚した位である。
脳波操縦士 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
化物刑部が叩き出した青二才を、てめえはここへくわえこんだろう。たしかに見たという者がある。——三平の声で、そんな言葉も聞えて来た。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その時、すての顔色が突然紫色に変わり次にその唇を二つに割られたときに、貝はそこに永いくちづけをしたが、すてはその間際に殆ど無意識になにかをくわえこんだ。
片手に風呂道具を抱え、片手に手拭をぶらさげて、口には火のついたタバコをくわえていた。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)