前掛まえかけ)” の例文
妻は「死んだ」と言う語に驚いたらしく、前掛まえかけで手をき拭き一寸ちょっとせないらしく、「兵さん?」と言って、そのまま黙った。
あまり者 (新字新仮名) / 徳永直(著)
前掛まえかけで涙を拭きながら、父の給料の事やら、私たちの洋服代の事やら、いろいろとお金の事を、とても露骨に言い出しました。
千代女 (新字新仮名) / 太宰治(著)
女はたちまち帰り来りしが、前掛まえかけの下より現われて膳にのぼせし小鉢こばちには蜜漬みつづけ辣薑らっきょう少しられて、その臭気においはげしくわたれり。
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
外から帰って来た平兵衛へいべえは、台所の方で何かやっていた妻を傍へ呼んだ。女は水でれた手を前掛まえかけで拭き拭きあがって来た。
水面に浮んだ女 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
揃いの盲縞めくらじまの着物、飛白かすり前掛まえかけこん脚絆手甲きゃはんてっこうすげかさという一様な扮装いでたちで、ただ前掛の紐とか、襦袢じゅばんえりというところに、めいめいの好み
大菩薩峠:08 白根山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それでは働くのに不便なので、すそを少しばかり割り裂いて、足の働きの自由なようにしたのを前掛まえかけまはた前垂まえだれと謂った。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
と、甘谷あまやという横肥よこぶとり、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛まえかけ真田さなだをちょきんと結んだ、これも医学の落第生。
売色鴨南蛮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
芸者襟付の不断着ふだんぎに帯はかならず引掛ひっかけにして前掛まえかけをしめ、黒縮緬五ツ紋の羽織はおりを着て素足すあしにて寄席よせなぞへ行きたり。毛織のショール既にすたれて吾妻あずまコート流行。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
女中も出窓の日の光に、前掛まえかけだけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
菱刺には多く白とあいと紺との三色が用いられ、上着のみならず股引ももひきにも刺し、また色糸入で前掛まえかけも作ります。刺し方で模様が菱形ひしがたをとるので「菱刺」の名を得たのであります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
それからいやなものは向うの荒物あらもの屋に行きました。その荒物屋というのは、ばけもの歯みがきや、ばけもの楊子ようじや、手拭てぬぐいやずぼん、前掛まえかけなどまで、すべてばけもの用具一式を売っているのでした。
夕方、本所ほんじょのごみごみした町の、とある路地ろじの奥にある、海の上でも一日として忘れたことのないなつかしい我が家へ入ると、すぐ下の妹、十五になるすみが、前掛まえかけで手をきながら飛び出して来た。
秋空晴れて (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
黒の前掛まえかけ、毛繻子か、セルか
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
難有ありがとう様で、へい、」と前掛まえかけの腰をかがめる、揉手もみでひじに、ピンとねた、博多帯はかたおび結目むすびめは、赤坂やっこひげと見た。
菎蒻本 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声しきりなり。梯子段にれやら昇りきたる足音聞付け目覚めさむれば老婆の蒟蒻取換へにきたりしにはあらで、唐桟縞とうざんじまのおめし半纏はんてん襟付えりつきあわせ前掛まえかけ締めたる八重なりけり。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「一度なんか、阿母おっかさんにねだってやっとやって貰うと、満員で横の隅の所にしか、はいれないんでしょう。そうすると、折角その人の顔が映っても、妙に平べったくしか見えないんでしょう。私、かなしくって、かなしくって。」——前掛まえかけ
片恋 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
どォれも緞子どんす前掛まえかけ
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
……洋服屋の宰取さいとりの、あのセルの前掛まえかけで、頭の禿げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥ひきはいで持ってくと、今度は蝉の方で
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ひげのある親仁おやじが、紺の筒袖を、斑々むらむら胡粉ごふんだらけ。腰衣のような幅広の前掛まえかけしたのが、泥絵具だらけ、青や、あかや、そのまま転がったら、楽書らくがき獅子ししになりそうで、牡丹ぼたんをこってりと刷毛はけえどる。
縷紅新草 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「誰か、おい、前掛まえかけを貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)