入相いりあい)” の例文
兼好は粟を洗ってしまって、さらに蕪を刻み始めると、どこやらの寺で入相いりあいの鐘を撞き出した。うす寒い風が岡の麓から吹きあげて来た。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児こどもに世話が焼けますのに、入相いりあいせわしいもんですから。
海異記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
聞かでただあらましものを今日の日も、初瀬の寺の入相いりあいの鐘は、今し九十九間の階廊かいろうを下りて、竜之助の身にも哀れをささやく。
彫りかけて永き日の入相いりあいの鐘にかなしむ程かたまっては、白雨ゆうだち三条四条の塵埃ほこりを洗って小石のおもてはまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水しみず
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
いづれもただ美しなまめかしといはんよりはあたかも入相いりあいの鐘に賤心しずこころなく散る花を見る如き一味いちみの淡き哀愁を感ずべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
入相いりあいの鐘が聞える、おりふし夕霞が野山をこめている、その鐘は自分の寺でく鐘であるが、どうもこの時の心持はそうは思えない、というのであります。
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
おめき叫ぶ声、射ちかうかぶらの音、山をうがち谷をひびかし、く馬の脚にまかせつつ……時は正月二十一日、入相いりあいばかりのことなるに、薄氷うすごおりは張ったりけり——
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
隠亡堀おんぼうぼりの流れの向うに陽が落ちて、入相いりあいの鐘がわびしそうに響いて来た。深編笠ふかあみがさに顔をかくした伊右衛門は肩にしていた二三本の竿をおろして釣りにかかった。
南北の東海道四谷怪談 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そういう罪人を載せて、入相いりあいの鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川かもがわを横ぎって下るのであった。
高瀬舟 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
後夜の鐘をつく時は、是生滅法ぜしょうめっぽうと響くなり。晨朝じんじょう生滅滅已しょうめつめつい入相いりあい寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如しんにょの月をながめあかさん
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
私のした小さな好意にさえもこんなに有頂天になって喜び切っているこの印度の人々の心根を思うと、なんとなくこの淋しい入相いりあいの景色には一脈似たものがあるように観ぜられて
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
その薄き光線をきつつ西方の峰を越えしより早や一時間余も過ぎぬ、遠寺に打ちたる入相いりあいの鐘のも今は絶えて久しくなりぬ、ゆうべの雲は峰より峰をつらね、夜の影もトップリとはたけきぬ
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
「そうか。では、こういたそう。これへ来て、初瀬詣でをせずに過ぎるも心ないわざ。わしは、入相いりあいの鐘のなる頃、ふたたび、ここへ帰って来る。まちがいなく、お夫婦ふたりもここにいてくれぬか」
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして寺の入相いりあいの鐘が鳴るまでは戻って行かなかった。音吉が出奔してから変った点は、日に焼けた額の皺が目立って深くなったことと、口元に何となく粗暴な影が漂ってきたこととだけだった。
土地 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
夕暮の入相いりあいの音、ひぐらしのこえ、それからそれにつれて周囲の小寺から次ぎ次ぎに打ち鳴らされる小さな鐘などをぼんやり聞いていると、何んともかとも言いようのない気もちがされて来るのだった。
かげろうの日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「早や、暮れかかる入相いりあいの」
三人の相馬大作 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
ふだん聞き慣れている上野や浅草の入相いりあいの鐘も、魔の通る合図であるかのように女子供をおびえさせた。その最中にまた一つの事件が起った。
半七捕物帳:06 半鐘の怪 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、かぎりある命のうち、入相いりあいの鐘つくころ、しなかわりたる道芝のほとりにして、その身は憂き煙となりぬ。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
わがいえ山の手のはづれにあり。三月春泥しゅんでい容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。いち喇叭らっぱ入相いりあいの鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草をみ塀を蹴破る。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
紀三井寺きみいでら入相いりあいの鐘がゴーンと鳴る時分に、和歌浦わかのうらの深みへ身を投げて死んでおしまいなすった」
大菩薩峠:05 龍神の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
たぶん江戸で白河楽翁侯しらかわらくおうこう政柄せいへいを執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院ちおんいんの桜が入相いりあいの鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。
高瀬舟 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
折節入相いりあいの鐘が花のこずえに響き渡った、というのである。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
耳にきき心におもい身に修せばいつか菩提さとり入相いりあいの鐘
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
「さあ、入相いりあいがボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
どういうわけか人の道を忘れた放蕩惰弱ほうとうだじゃくなもののいとわしい身の末が入相いりあいの鐘に散る花かとばかり美しく思われて、われとても何時いつか一度は無常の風にさそわれるものならば
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
雪の頂から星が一つ下がったように、入相いりあいの座敷に電燈のいた時、女中が風呂を知らせに来た。
眉かくしの霊 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
相応院の入相いりあいの鐘がしきりに、土手を伝い、川面を伝って、この捨小舟すておぶねを動かしに来るのだが、がんりきの耳には入らないと見えて、暫くすると、またいい寝息で寝込んでしまいました。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
入相いりあいの浪も物凄ものすごくなりかけた折からなり、あの、赤鬼あかおに青鬼あおおになるものが、かよわい人を冥土めいど引立ひきたててくようで、思いなしか、引挟ひきはさまれた御新姐ごしんぞは、何んとなく物寂ものさびしい、こころよからぬ
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お花さんにまず幾らか握らせて、向島あたりへ姐さんをおびき出して、ちょうど浅草寺せんそうじ入相いりあいがぼうん、向う河岸で紙砧かみぎぬたの音、裏田圃で秋のかわず、この合方あいかたよろしくあって幕という寸法だろう。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相いりあいが、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)