陶然とうぜん)” の例文
不可思議なる神境から双眸そうぼうの底にただようて、視界に入る万有を恍惚こうこつの境に逍遥しょうようせしむる。迎えられたる賓客は陶然とうぜんとして園内に入る。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
八郎は雪代の酌を受けて、うやうやしく頂いた——その癖酌を受けたのは今ばかりではない、もういい加減酔っている。実は私も陶然とうぜんとしていた。
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
自嘲じちょうしたり、自惚たりしているうちに、ようやく陶然とうぜんと酔ってきた。——そして、いつの間にかグッスリ睡ったものらしい。
疑問の金塊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
宅助は陶然とうぜんとして、おぼつかない足どりを踏みしめていた。しかしあくまで油断はしていないので、酔わぬ時より、しつこくお米に注意を配った。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
晩食には湖水でとれた鯉の洗いを馳走してくれ、美人の唇もむろん昼ほどは固くなく、予は愉快な夢を見たあとのような思いで陶然とうぜんとして寝についた。
河口湖 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
やがて癇癪が納まって陶然とうぜん——陶然からようやく爛酔らんすいの境に入って、そこを一歩踏み出した時がそろそろあぶない。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
実際僕は久しぶりに、旅愁りょしゅうも何も忘れながら、陶然とうぜんさかずきを口にしていた。その内にふと気がつくと、たれか一人幕の陰から、時々こちらをのぞくものがある。
奇遇 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
あたかも彼七本やりを以て有名なるしづたけ山下余吾湖をるにたり、陶然とうぜんとしては故山の旧盧きうろにあるが如く、こうとして他郷の深山麋熊の林中にあるをわす
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
と、闇太郎は、先き程までの、夜の巷での、悪戦苦闘の、いまわしい追憶は、とうに忘れてしまったように、美酒の酔いに、陶然とうぜんと頬を、ほてらせながら
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
秋の日落ち谷蒼々そうそうと暮るゝゆうべ、玉の様な川水をわかした湯にくびまでひたって、直ぐそばを流るる川音を聴いて居ると、陶然とうぜんとして即身成仏そくしんじょうぶつ妙境みょうきょうって了う。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
誠心まごころのこもった主人の態度や愛嬌あいきょう溢れる娘の歓待もてなしは、彼の心を楽しいものにした。殊にお露が機会おりあるごとに彼へ示す恋の眼使いは、彼の心を陶然とうぜんとさせた。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
梅酒なんかで陶然とうぜんとしていたのだから、太平無事なわけである。鮨屋ではこのほかに裏通りに七個拾銭という薄利多売の屋台店があった。流石さすがに握りは小さくて私などには物足りなかった。
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
お許し下さい。あなたの光に陶然とうぜんと酔って、地上の事を忘れていたのを。
心の王者 (新字新仮名) / 太宰治(著)
会食の時間となれば賓客ひんかくは三々伍々幾多いくたの卓にって祝杯を挙げ二十余名の給仕人燕尾服えんびふくにて食卓の間を周旋しゅうせんす。名にし負う一年一度の夜会主客しゅかく陶然とうぜんとして歓声場裏に和気の洋々たる事春のごとし。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
と主人は陶然とうぜんとした容子ようすで細君の労を謝して勧めた。
太郎坊 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
後刻陶然とうぜんとして葉巻をくゆらしながら駈けつける。
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
かよは陶然とうぜんと眼を細めた。
風流太平記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
蠱惑こわくに充ちた美しいお照の肉体の游泳姿態を見せられて、いずれ物言わぬ眼に陶然とうぜんたる魅惑みわくの色をただよわしていたものである。
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そして二人とも陶然とうぜんと雨も憂いも忘れかけていると、にわかにただならぬ雨風が吹きすさび、浪の音とも鼓の音ともわからぬ声が、一瞬天地をつつむかと思われた。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
断わっても聞かれず、月はありながら提灯を持った僕に、別酒一樽を持たせて大平山神社のやしろを、左へ取って、石積みの鳥居をくぐる時分、酔いが廻って主膳は陶然とうぜんたる心持になりました。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚さんごたまも、みんな陶然とうぜんとした一種の気分を帯びていた。最もこの気分にちて活躍したものは竹の洋杖ステッキであった。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一帆はしばらくして陶然とうぜんとした。
妖術 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「ははは、範宴が、何かいうとる」僧正はもう陶然とうぜんと酒仙の中の人だった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今や、米友は陶然とうぜんとして、その型に遊ぶの人となりました。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「少くとも陶然とうぜんとしているだろう」
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「しかし……」と、ソロソロこの辺から陶然とうぜんとほろ赤くなって
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先生は酔わないうちから陶然とうぜんと鼻毛を伸ばしてしまいました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やがて陶然とうぜんと、外へ出た。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)