ひた)” の例文
仲間の抜荷買連中と共に逸早いちはやく旅支度をして豊後国、日田ひたの天領に入込み、人の余り知らない山奥の川底かわそこという温泉にひたっていた。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
その意味で、それがおそれを滲ませているかぎり、画布はいのちの中にひたり、いのちの中に濡れているともいえよう。ハイデッガーはいう。
絵画の不安 (新字新仮名) / 中井正一(著)
車輪を洗ふ許りにひた々と波の寄せてゐる神威古潭かむゐこたんの海岸を過ぎると、錢凾驛に着く。汽車はそれから眞直まつしぐらに石狩の平原に進んだ。
札幌 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄もやか何ぞのような雰囲気ふんいきのなかに、お今の心をひたしはじめるのであった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
わが歩みは檜の日かげより丘のはづれの小亭へ、その傍の径を下りて睡蓮科の生ひひたれる小さき池のほとりへゆく。
春の暗示 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
バサバサと凍った雪を踏んで、月光のなかを、彼は美しい想念にひたりながら歩いた。その晩行一は細君にロシアの短篇作家の書いた話をしてやった。——
雪後 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
園ノ西南がいツテコレヲ径ス。眺観豁如かつじょタリ。筑波つくば二荒ふたらノ諸峰コレヲ襟帯きんたいルベシ。厓下ニ池アリ。さかしまニ雲天ヲひたシ、芰荷菰葦叢然きかこいそうぜんトシテコレニ植ス。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
紅をしてゐる、日は少し西へ廻つたと見えて、崖の影、峯巒ほうらんの影を、深潭にひたしてゐる、和知川わちがはが西の方からてら/\と河原をうねつて、天竜川へ落ち合ふ。
天竜川 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
この国には水のほかに何か飲料が出るかね? 自分は水にドクニンジンの葉をひたして飲んだことがあるが、これは暑いときにはただの水よりよいと思った、と。
バルコンの外のえんじゅの梢は、ひっそりと月光にひたされている。この槐の梢の向う、——幾つかの古池を抱えこんだ、白壁の市街の尽きる所は揚子江ようすこうの水に違いない。
長江游記 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
草にひたされ草を養っている水の集りが中央に二、三の細流を湛えて、雑魚や水すましの群れこそ見えないが、里の小川のおもかげを偲ばせて、しずかに山の影を浮べている。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
闇かと見ると、その行燈の消えた隙間から一面に白い水——みるみる漫々とひろがって、その岸には遠山の影をひたし、木立の向うに膳所ぜぜの城がかすかにそびえている。
陰にして惡、闇くして邪なる事に從ふならば、いざ知らず、苟も然らざる限りは朝の張る氣の中にひたつて而して自己の張る氣を保つて事に從ひ務に服するを可とする。
努力論 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
冷いくらゐの涼味は茶屋が軒先の筧の水から湧いて、清水にひたした梨の味にも秋はもう深かつた。
箱根の山々 (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
入江にちかづくにつれて川幅次第に廣く、月は川面に其清光をひたし、左右の堤は次第に遠ざかり、かへりみれば川上は既に靄にかくれて、舟は何時しか入江に入つて居るのである。
少年の悲哀 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
男子いやしくも志を立てて生活の戦場にで人生に何等かの貢献をこころみんと決したる上は、たとえはらわた九たび廻り、血潮の汗に五体はひたるとも野に於いて、市に於いて、すきに、くわに、剣に
名にし負える荻はところく繁り合いて、上葉うわばの風は静かに打ち寄するさざなみを砕きぬ。ここは湖水のみぎわなり。争い立てる峰々は残りなく影をひたして、ぎ行く舟は遠くその上を押し分けて行く。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
自分が始めてこの根本家を尋ねた時、妻君がしきりに、すきくは等を洗つて居た田池たねけ——其周囲には河骨かうほね撫子なでしこなどが美しくそのしをらしい影をひたして居たわづか三尺四方に過ぎぬ田池の有つた事を。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
しまひにはさういふ意識のなかに自らひたつてしまつたせいであらうか、日本軍艦数隻が沈没し、伊豆いづの大島が滅して半島の近くに新しい島が出来、神聖ハイリーゲ江の島が全く無くなつてしまつたといふ
日本大地震 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
市助が立って、暗い台所で、何か水にひたしていた。そして、持って来た。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
水盤のなかに、埃の吹いた拡大鏡をひたしながら。
希臘十字 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
「子供一人を取って別れるよりほかない。そして母と妹とを呼び寄せて、わずらいのない静かな家庭の空気に頭をひたしでもしなければ……。」
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
わが歩みは檜の日かげより丘のはづれの小亭へ、そのかたはらの径を下りて睡蓮科の生ひひたれる小さき池のほとりへゆく。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
昼間その温泉にひたりながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差し出ているかえでの枝が見えた。
温泉 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
神の光にひたっていた人間がはじめて太陽の光を発見し、ベンノー・ライフェンベルグが指摘するように、一九〇〇年代ゴッホ、ゴーガンによってそれが燃え切らされて後
芸術の人間学的考察 (新字新仮名) / 中井正一(著)
活栓かっせんと針を手早く添えて、中味の液体をシーソー式に動かすと、薬の残りを箱の中の瓶に返して、右手にアルコールをひたした脱脂綿と、万創膏ばんそうこうを持ちながら薬局を出て来た。
笑う唖女 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
法衣ころもの裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、幾干いくその坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気にひたし念を浄業の浄味に育みて
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
が、彼の思索はあまりに原始的で彼の動物的生活にひたっていたので、それは単なる物識りのそれより有望なものではあったが、人に伝えるに足るほど成熟することは稀であった。
日の暮れ方にお増は独りで、とおるような湯のなかに体をひたして、見知らぬ温泉場ゆばにでも隠れているような安易さを感じながら、うっとりしていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
凝る氣を以て事に從ふは、譬へば氷を以て物と共にくが如しで、其の物能く幾干か變ぜんである。張る氣を以て事に從ふは、流水を以て物をひたすが如しで、物漸くに長大生育する。
努力論 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
巨大な硝子筒がらすとうの中にピッタリと封じめられて、強烈な薬液の中にひたされて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅にしまい込まれているに相違無い事を
一足お先に (新字新仮名) / 夢野久作(著)
現像液の中に自分もなかばひたっているといってもよい。
物理的集団的性格 (新字新仮名) / 中井正一(著)
水は音もしないで、静止したやうに星の影をひたしてゐた。対岸には濛靄が立罩たちこめてどこをてもきてゐるやうな家はなかつた。電車の響きばかりが劇しく耳についた。
復讐 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
こうした見かけばかり恐ろしく、派手な内容の、薄ッペラなバラック町の気分に朝から晩までひたっている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。
秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影をひたせり。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
現像液の中にすら、自分もが半分ひたった思いである。
「いやね。」とお増はその手を引っ張ったが、心は寂しいあるものにひたされていた。蜜柑の匂いなどのする四下あたりには、草のなかに虫がそこにもここにも、ちちちちと啼いていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
鳥打帽を買うにしても必要からでなく、只そういった気分にひたりたいために二円乃至四円を奮発するので、参考書を買う余裕はなくても、新流行の鳥打を買う銭はあるのが彼等の生活の特徴である。