恬然てんぜん)” の例文
なんとなれば娼婦型の女人はただに交合を恐れざるのみならず、又実に恬然てんぜんとして個人的威厳を顧みざる天才をそなへざるべからざればなり。
娼婦美と冒険 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
そう言われると、女を負うて渡した禅僧が恬然てんぜんとして答えるよう、おれはもう女を卸してしまったが、貴様はまだ女を背負っている!
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
あらゆる放埒ほうらつ、物盗り、辻斬りまでやって、なお恬然てんぜんたる悪行の甘さを夢みるお十夜だが、母を思う時、かれはもろい人間だった。
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然てんぜんとして世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
冷寂の鬼気魄に迫るような密林も意に留めず、清洌肌を刺すような溪水をも、恬然てんぜんとして遙渉する女らしくない娘である。
葵原夫人の鯛釣 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
自らおのれをごまかしながらしかもおそらくはまじめに、いかに恬然てんぜんとして天職の名を容易に僣することであるか!
名花珍草をもって軽軻けいかを飾るに趣向をもってし、新奇を競い、豪奢を誇り、わずか数時間のお馬車の遊行に、数万フランをなげうって恬然てんぜんたるは常住茶飯事まいどのこと
彼は老婆の前後左右一間ばかりの間に恬然てんぜんとして、腰を掛けて居る乗客を心から、賤しまずには居られなかつた。
我鬼 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
けれども強制的にさうした処に堕ち込んだ憐れむべき女でさへも食べる為、生きる為と云ふ動かすことの出来ない重大な自分のために恬然てんぜんとしてゐます。
青山菊栄様へ (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
旧のごとくに恬然てんぜんとして坐っておられるのは、威儀あるものとは、すべての人類からは見られえないであろう。
さうして全ては行はれたのちに於て、悔ゆべきは悔ひ、悔ひなきときは尚恬然てんぜんと先へ進もうと考へたのです。
淫者山へ乗りこむ (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
斯う言った蔭口が、左馬之助の耳にも聞えないではありませんが、左馬之助はその美しい顔を曇らせる様子もなく、恬然てんぜんとしてつつがない日を送って居りました。
取り巻いて恬然てんぜんとしている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか
私が張作霖を殺した (新字新仮名) / 河本大作(著)
余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や迂拙うせつの文を録し、恬然てんぜんとしてずることなし。警戒近きにあり。請う君これをれと。君笑って諾す。
将来の日本:02 序 (新字新仮名) / 田口卯吉(著)
余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や迂拙うせつの文を録し、恬然てんぜんとしてずることなし。警戒近きにあり。請う君これをれと。君笑って諾す。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
門を出入りする官員らの大部分は、まげを残して白足袋たび穿いていた士族であった。通りがかりにじろじろと眺められる場所で、阿賀妻は恬然てんぜんと用意をなしえた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
彼らは単に大道徳を忘れたるのみならず、大不道徳を犯して恬然てんぜんとして社会に横行しつつあるのである。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一人の殺人犯を見逃してそれで恬然てんぜんと行い済ませて居られるのでありましょうか? 私は私の苦しい心情を、殺人犯で有りながら其の罪を罰せられないと云う苦しさを
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
併し今から後御身が一切の受用に臨んで、一層身を入れて一層熱烈にこれをけるのは、此脅迫の賜ものであらう。青年は兎角何事をも明日に譲つて恬然てんぜんとしてゐたがる。
復讐 (新字旧仮名) / アンリ・ド・レニエ(著)
恬然てんぜんと一笑した人の墓石は、現今も築地つきじ本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
人殺しをしておいて、恬然てんぜんと任地に赴こうとしたなどとは、正気の人間の行為とは思えない。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
風潮に託して恬然てんぜんとしている訳にはいかない、自分が正当な結婚に依らずして生れたという自覚には、時代と身分の如何いかんに拘らず絶望感が伴う、ものごとを正面から見るまえに
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
恬然てんぜんとして徳川十五代将軍と肩を並べている大官連の厚顔無恥振りにまなじりを決していた。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
一言にして言えば、地震の予言に耳を傾けるほど人間が聡明であったならば、大火に対してなんの防備もない厖大な都市を恬然てんぜんとして築造して行くほどの愚は、決してしなかったであろう。
地異印象記 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
「語学に新旧しんきゅうの区別があるか」と先生は恬然てんぜんとしていう。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
べろり舌なめずりをして恬然てんぜんと答えました。
メフィストフェレス(恬然てんぜんとして。)
広海屋は、恬然てんぜんとして、いって
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近いテエブルの上にあつたサンド・ウイツチの皿を勧めながら、恬然てんぜんと僕にかう言ひました。
河童 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
たとえ一夜でも、歓宴を共にした人間に、よくもこんな面構えができるものだと怪しまれるほど、恬然てんぜんと、うそぶき澄ました行儀であった。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たれやらの書いたものに、人は夢の中ではどんな禽獣きんじゅうのような行いをもあえてして恬然てんぜんとしているもので
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
私はそれを作家精神や情熱の貧しさと結びつけて一途いちずじ悲しんだこともあったが、持って生れたランダの性は仕方がないとあきらめて、今では恬然てんぜんとしているのである。
文字と速力と文学 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
然もその女との卑しい情事のあいだに、彼は恬然てんぜんとして兄妹の好意をぬすんでいたのだ。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
恬然てんぜん、また冷然、否むしろ揚々として自得の色あるはどうか、文壇に著名なる氏が、一身に負える醜名は、小説壇全体の醜声悪名とならざるを期せざるなりと責め、——いわゆる実験とは如何
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
一時急にいわばつぼみから花へと移る中途の妙なみにくさにガタッと落ち込む時期だが、その娘さんは特に蒼い顔にぶつぶつまで出して、そうした醜さを恬然てんぜんとしてさらけ出しているような横顔だった。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
風葬というのは、犬か鷲に食わせることで、岩山の平らなところへ担ぎあげ、肉は肉、骨は骨にして、石で叩いて手で捏ね、すさまじい肉団子をこしらえ、手も洗わずに恬然てんぜんたる顔で茶を飲んでいる。
新西遊記 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
大丈夫だいじょうぶかいと赤シャツは念をした。どこまで女らしいんだか奥行おくゆきがわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄つじつまの合わない、論理に欠けた注文をして恬然てんぜんとしている。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼のお時儀に? 彼は——堀川保吉ほりかわやすきちはもう一度あのお嬢さんに恬然てんぜんとお時儀をする気であろうか? いや、お時儀をする気はない。
お時儀 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そういいあてられると、さらに、その奥の奥までを、透明に、見すかされているような気がして、恬然てんぜんとしておられなかった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「小さいのですとも。あれは Cliqueクリク の名なのです」大村は恬然てんぜんとしてこう云った。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
こういう問答を聞いていたゲエルは手近いテエブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、恬然てんぜんと僕にこう言いました。
河童 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
はらからかまえどりをきめて蛾次郎太夫がじろうだゆう邪念じゃねんをはらって独楽こまを持ちなおし、恬然てんぜんとして四どめの口上こうじょうでのべたてた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然てんぜんとしていなくてはならない。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。
余興 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
或時英文を作つて見せると——子規はどうしたと思ひますか? 恬然てんぜんとその上にかう書いたさうです。——ヴエリイ・グツド!
正岡子規 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ただ自分ひとりの栄華えいがのためだけに——そんな小さい慾望だけのために——これほど大きな犠牲に恬然てんぜんとしていられようか。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宇平の態度は不思議に恬然てんぜんとしていて、いつもの興奮の状態とは違っている。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
さもなければ尊は高天たかまはらの外に刑余の姿を現はすが早いか、あのやうに恬然てんぜん保食うけもちの神を斬り殺す勇気はなかつたであらう。
僻見 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
そばには竹屋三位卿、恬然てんぜんとして控えている。啓之助の目と有村の目が、重喜をはずして時々妙にからみあった。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「そんな事はないよ」と、木村は恬然てんぜんとして答えた。
あそび (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その上古人は少くとも創世記に目をらしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然てんぜんとその説を信じている。
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)