塗抹とまつ)” の例文
わずかに数筆を塗抹とまつした泥画の寸紙の中にも芸衛的詩趣が横溢おういつしている。造詣の深さと創造の力とは誠に近世にならびない妙手であった。
小児の掌面に呪文じゅもん三回墨書し、さらにその上を墨にて塗抹とまつして文字をして不明ならしめ、これを握ること暫時にしてその手をひらき見れば
妖怪学 (新字新仮名) / 井上円了(著)
したがって余の意識の内容はただ一色ひといろもだえ塗抹とまつされて、臍上方さいじょうほう三寸さんずんあたりを日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かくてその人は愛の逆用から来る冥罰みょうばつを表面的な概念と社会の賞讃によって塗抹とまつし、社会はその人の表面的な行為によって平安をつないで行く。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
それは実に、その後多くのすぐれた国民を襲い、言わばその出生証書を塗抹とまつしたる、あの恐るべき国家的抑圧の典型となり標本となったのである。
彼らはいつも、小心翼々として自分を監視することにつとめ、前に書いたものを塗抹とまつしようとつとめ、「おや、これは前にどこで読んだのかしら……」
吾人は嘗て彼の原稿なるものを見しことあり、其改刪かいさんの処は必ず墨黒々と塗抹とまつしてけづりたる字躰の毫も見えざる様にし、絶えて尋常書生の粗鹵そろなるが如くならず。
明治文学史 (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文にって、如何なる場合にも寸毫すんごうも余の粉飾ふんしょく塗抹とまつを加えなかった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹とまつし、「壽哉じゆさい所藏」と書してある。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
黒い薬を顔一面に塗抹とまつして、黒い仮面のやうな、さうして落窪おちくぼんだ眼ばかりが光つて、その病床の傍へ来てはならないと、物憂げに手を振つた怪物のやうな母の顔であつた。
この島の大部分を覆うている唐竹は、屋根を葺くのには、藁よりもはるかに秀れていた。木の枝を、横にいくつも並べて壁にした。そして、近所からねばい土を見出して、その上から塗抹とまつした。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そういう暗澹たる空模様の中で、黒死館の巨大な二層楼は——わけても中央にある礼拝堂の尖塔や左右の塔櫓が、一刷毛はけ刷いた薄墨色の中に塗抹とまつされていて、全体が樹脂やにっぽい単色画モノクロームを作っていた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
忍びざりき 強ひて塗抹とまつして
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
それから主人は鼻の膏を塗抹とまつした指頭しとうを転じてぐいと右眼うがん下瞼したまぶたを裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退けた。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
消滅する事物の塗抹とまつのうちにも、消えする事物の縮小のうちにも、哲学はすべてを認知する。ぼろを再び緋衣ひいとなし、化粧品の破片を再び婦人となす。
注入されたあらゆる賛美とあらゆる尊敬とを塗抹とまつし、すべてを——虚偽をも真実をも、否定し、真実だと自分で認めないすべてのものを、あえて否定しなければいけない。
とっさに弁ずる手際てぎわがないために、やむをえず省略の捷径しょうけいてて、几帳面きちょうめん塗抹とまつ主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしてもまぬかれがたい。
子規の画 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
倒るる者の上には飛びかからんと待ち構えてる、不信なる同盟者イギリス、法律に対して四人の死刑を拒まんためにベッカリアの背後に潜んでる上院、王の馬車から塗抹とまつされた百合ゆりの花
彼らは自業自得じごうじとくで、彼らの未来を塗抹とまつした。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものとあきらめて、ただ二人手をたずさえて行く気になった。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼等かれら自業自得じごふじとくで、彼等かれら未來みらい塗抹とまつした。だからあるいてゐるさきはうには、はなやかな色彩しきさいみとめること出來できないものとあきらめて、たゞ二人ふたりたづさえてになつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも璆鏘きゅうそうおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この壁の周囲をかくまでに塗抹とまつした人々は皆この死よりもつらい苦痛をめたのである。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
近頃日本でも美顔術といって顔の垢を吸出して見たり、クリームを塗抹とまつして見たりいろいろの化粧をしてくれる専門家が出て来ましたが、ああいう商売はおそらく昔はないのでしょう。
道楽と職業 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
下劣なる趣味を拘泥なく一代に塗抹とまつするは学人の恥辱である。彼らが貴重なる十年二十年をげて故紙堆裏こしたいり兀々こつこつたるは、衣食のためではない、名聞みょうもんのためではない、ないし爵禄財宝しゃくろくざいほうのためではない。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)