冷々ひえびえ)” の例文
そして、頬を草の根にすりつけ、冷々ひえびえとした地の息を嗅ぎながら、絶えず襲い掛かってくる、あの危険な囁きから逃れようともだえた。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼女はもう泣く事にもいたのか、五月の冷々ひえびえとしたたたみの上にうつぶせになって、小さい赤蟻あかありを一ぴき一匹指で追っては殺していた。
魚の序文 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
大地は、冷々ひえびえしていた。——ひょっとして、自分のあるいている今の闇が——あの世という冥途よみの国ではあるまいかなどと思った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが、音もなくカーヴを廻りきり、冷々ひえびえとした夜風の中に、遠く闇の中に瞬く、次の駅の青い遠方信号が、見えて来ると源吉は
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
裏の田圃に秋のかわずが啼き出して、夜風が冷々ひえびえと身にしみて来た頃に、半七と松吉は身支度をして緑屋を出た。
大時計のそばを通るとき、時間を覗くと恰度十二時で——人通りが稀になって、どこのカッフェも店仕舞をやっていた。外気が冷々ひえびえとして、細かい雨が降りだした。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
冷々ひえびえした夕闇ゆうやみのなかで、提燈をかかえるようにして暖まったり、タバコを吸ったりして荷物のくるのを待った。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
それがすむと、どこから持って来たのか冷々ひえびえと露のれている一升壜いっしょうびんの口を開いてコップに移した。冷え切った麦湯! ゴクンゴクンと喉を通ってはらわたまでしみわたる。
地中魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その前は宵から引続いた夜であり、その後は冷々ひえびえとした北の微風が流れ出す朝であった。その凡てが澱んで動かぬ時間の間、彼は床の中に幾度か身を悶えて自ら自己をさいなんだ。
掠奪せられたる男 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
時雄は読書する勇気も無い、筆を執る勇気もない。もう秋で冷々ひえびえと背中の冷たい籐椅子とういすに身をよこたえつつ、雨の長い脚を見ながら、今回の事件からその身の半生のことを考えた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
襟を吹く秋風のみが、いたずらに冷々ひえびえはだでて行った。
歌麿懺悔:江戸名人伝 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
ただ暗き壁のおも冷々ひえびえ
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
壺の内も外も、境のないほど、秋葉がいしげっている。まだ、萩に早く、桔梗ききょうも咲かぬが、雨後の夜気は、仲秋のように冷々ひえびえと感じる。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
階下はくら冷々ひえびえとしてゐる。富岡は女の降りて来るのを、階段の下で待つてゐた。卓子に椅子の乗せてある店の床に、鼠がちらちらしてゐた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
一等辛いことは——動作は簡単だが、こう手をのべてピストルを握れば、かねの肌が冷々ひえびえとして——
ピストルの蠱惑 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
敬二少年は、もうすっかり目がえてしまった。寝ていても無駄なことだと思ったので、彼は寝床から起き出して、冷々ひえびえした硝子ガラス窓に近づいた。月はいよいよあきらかに、中天ちゅうてんに光っていた。
○○獣 (新字新仮名) / 海野十三(著)
フト郷里くにの荒果てた畑を偲い出しながらぐんぐん墜落する西日の中に、長い影を引ずって、幾度か道を間違えた末、やっと『水木舜一郎』の表札を発見した時は、冷々ひえびえとした空気の中にも
魔像 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々ひえびえとした。
野ざらし (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
初更からふたたび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「ぎょう」にかかった。けれど深夜の空は冷々ひえびえと死せるが如く、何のしるしもあらわれて来ない。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やがては、壁も天井も、そして一すい短檠たんけいの灯までが、水音を立てているのではないかと疑われるほど、武蔵は冷々ひえびえとした気につつまれた。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
地の下に、蚯蚓みみずが泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと冷々ひえびえして、人間の心からも、焦々いらいらしたものをぬぐってゆく。
夕顔の門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たえず、冷々ひえびえおもてをかすめてくる陰森いんしんたる風、ものいえば、ガアンと間道中かんどうじゅうの悪魔がこぞって答えるようにひびく。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
白みかけたばかりの夜明けの風が、今や、刑場のむしろにのって、やいばの露に散ろうとするわが子のそばから吹いて来るように、冷々ひえびえと、老先生の顔をった。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
淙々そうそうと瀬の水の戯れは、月の白い限りの天地を占めて独り楽しんでいる。上流から下流まで、ここは奥丹波の風の通路のように冷々ひえびえと夜気が流れている。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
冷々ひえびえと、夜霧が白洲に下りている。夏の夜は明けやすい。とこうする間に、東の空が白み出すのではあるまいか。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
老先生の白いひげに、深夜の風が、冷々ひえびえとながれた。わが子を奪う冥途よみから洩れて来るような風である。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ぎたての刀を横に置いたように、加茂川の水は青かった。ふり仰ぐと冱寒ごかんの月は冷々ひえびえと冴えているのだった、かかる折には望ましい雲もいつか四方にくずれて。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
和書の本棚や、机や経巻などが、冷々ひえびえと、備えてあるほか、ふつうの住僧の部屋とかわりはない。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こんな深夜なのに、道のどこからともなく、しょうに和してひちりきの音が冷々ひえびえとながれていた。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
湖の夜風が、冷々ひえびえと忍んでくる。二人は、ゆれる灯影をよそに、しばらく黙然としていた。
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
冷々ひえびえと樹海の空をめぐっている山嵐さんらんの声と一節切ひとよぎり諧音かいおんは、はからずも神往しんおうな調和を作って、ほとんど、自然心と人霊とを、ピッタリ結びつけてしまったかのごとく澄みきっていた。
鳴門秘帖:03 木曾の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
床下にいると、外にはないと思っていた風が冷々ひえびえと動いていた。太田黒兵助は、自分の膝を抱えこんだまま、骨まで冷えてゆく体がわかった。ガチガチと奥歯が鳴るのをどうしようもなかった。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
皎々こうこうの月も更け、夜気はきわだって冷々ひえびえとしてきた。いかに意気のみはなお青年であっても、身にこたえる寒気や、しわぶきには、彼も自己の人間たることをかえりみずにはおられなかったのであろう。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かかる冬の冷々ひえびえとするのに、下には色地のえりをみせているが、上には、白絖しろぬめの雪かとばかり白いかいどりを着て、うるしのつやをふくむ黒髪は、根を紐結ひもむすびにフッサリと、曲下わさげにうしろへ垂れている。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
五月雨さみだれ雨滴うてきの中に、冷々ひえびえと、そうした感傷の思い出を心に聴き、また従兄弟の光春は、彼の目に触れない遠い小間こまで、炉の火加減をのぞき、釜師かまし与次郎が作るところの名釜めいふのあたたかなたぎりを聞き
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
肌は汗だが、山高まるほど、山気さんき冷々ひえびえと毛穴にせまる。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)