一事いちじ)” の例文
窓外の地上におちっていたガラスの破片にさえ一つの指紋もなかった。この一事いちじもってしても、賊が並大抵の奴でないことが分るのだ。
何者 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
従来の浮世絵が取扱ひ来りし美麗なる画題中に極めて突飛とっぴなる醜悪の異分子を挿入そうにゅうしたる一事いちじはなはだ注意すべき事とす。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
けれども、桂正作の父の気象はこの一事いちじでも解っている。小松山のふもとに移ってこのかたは、純粋の百姓になって正作の父は働いているのを僕はしばしば見た。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
さしも願はぬ一事いちじのみは玉を転ずらんやうに何等のさはりも無く捗取はかどりて、彼がむなしく貫一の便たよりを望みし一日にも似ず、三月三日はたちまかしらの上にをどきたれるなりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
あゝ、人間にんげん萬事ばんじじつ天意てんゐまゝだと、わたくしふかこゝろかんずるとともに、たちま回想くわいさうした一事いちじがある。
居士コジは、人命犯じんめいはんにはかならず萬已むを得ざる原因あることひ、財主ざいしゆ老婆ろうばが、貪慾どんよくいきどふるのみの一事いちじにしてたちま殺意さついせうずるは殺人犯の原因としては甚だ淺薄なりと
「罪と罰」の殺人罪 (旧字旧仮名) / 北村透谷(著)
よつすみやかやかた召返めしかへし、いて、昌黎しやうれいおもてたゞしうしてふ。なんぢずや、市肆しし賤類せんるゐ朝暮てうぼいとなみに齷齪あくさくたるもの、一事いちじちやうずるあり、なんぢまなばずしてなにをかなすと、叔公をぢさん大目玉おほめだまくらはす。
花間文字 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
この書のする所は、わたくしのために創聞そうぶんに属するものがすこぶる多い。就中なかんずくとすべきは、独美に玄俊げんしゅんという弟があって、それが宇野氏をめとって、二人の間に出来た子が京水だという一事いちじである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
されど一事いちじそくし、一物いちぶつするのみが詩人の感興とは云わぬ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
鈴江が、捜査係長にたずねられた一事いちじがある。
電気看板の神経 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼はそれどころではないのだ。この化物みたいな、恐ろしい不可思議力の本体をつきとめること、彼の頭はただその一事いちじで一杯になっていたのだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
これ一事いちじきわつらぬかんと欲すればおのづから関聯かんれんして他の事に及ぶが故なり。細井広沢ほそいこうたくは書家なれど講談で人の知つたる堀部安兵衛ほりべやすべえとは同門の剣客けんかくにて絵も上手なり。
小説作法 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
この一事いちじのみにあらず、お峯は常に夫の共にはかると謂ふこと無くて、女童をんなわらべあなどれるやうに取合はぬ風あるを、口惜くちをしくも可恨うらめしくも、又或時は心細さの便無たよりなき余に、神を信ずる念は出でて
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
(何と驚くべき努力であったろう。彼は午後から、殆ど十時間の間、この一事いちじに夢中になっていたのだ)その頃には、用意の洗面器が、(以下二行削除)
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
という様なことをしゃべった。なぜ、そうしなければならないのか、彼自身にも、はっきり分らなかったけれど、あの一事いちじを秘密にして置いては、何だかまずい様に思われた。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
皆さん、犯人の智慧の恐ろしさは、この一事いちじによっても、はっきりと分るではありませんか。三重渦巻の怪指紋は、その紋様が象徴している通り、実に三重の大きな役割を勤めたのです。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
引越しをして、空家と見せかけて、そこの天井裏に隠れているなんて、悪魔でなくては考えつけないことだよ。この一事いちじからでも、君があの恐ろしい殺人者であることは、立派に証拠立てられている。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)