永禄えいろく)” の例文
永禄えいろくあるいは文禄ぶんろく年間に琉球りゅうきゅうから伝わった蛇皮線じゃびせんを日本人の手で作りかえた、それがだんだんポピュラーになったものらしい。
日本楽器の名称 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
この話は「続武家閑話ぞくぶけかんわ」にったものである。佐橋家の家譜かふ等では、甚五郎ははやく永禄えいろく六年一向宗徒にくみして討死している。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
使者は四条坊門の南蛮寺なんばんじを訪れて、永禄えいろく以来日本に来ている宣教師せんきょうしオルガンチノをれてふたたび信長の陣所天野山へ帰った。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
池鰹鮒ちりう家の息女おえつかた、———後の松雪院しょうせついんは、河内介が多聞山の城に帰ってからまだ半年もたゝない永禄えいろく元年の三月に、桐生きりゅう家に輿入こしいれした。
川中島かわなかじま合戦」といわれる両家のあらそいは天文てんもん二十二年(一五五三)から永禄えいろく七年(一五六四)まで、十年余日にわたってくりかえされたものであるが
城を守る者 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
はじめて唐船からふねがあの長崎の港に来たのは永禄えいろく年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀げんき元年の昔にあたる。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
当時、すなわち永禄えいろくの頃には、備前の国は三人の大名が各自おのおの三方に割居して、互いに勢いを揮っていた。谷津の城には浮田直家なおいえ、龍の口城には最所治部さいしょじぶ、船山城には須々木豊前すずきぶぜん
郷介法師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
永禄えいろく四年の夏のことであった。
赤い土の壺 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
かれや、かれの姉とちがい、永禄えいろく十一年生れのこの御曹子おんぞうしは、生れながら、貧苦も知らず、世間の真実にもふれていない。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すぐる永禄えいろく九年(一五六六)におみかた申してより、いつのたたかいにもご馬前のはたらきかなわず、家中の人びとからは絶えずに降参人こうさんにん、ごれんみんの者という眼で見られております
死処 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その古さから言えば永禄えいろく天正てんしょう年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強いあらしの襲って来たことが
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それがし祖父そふ興津右兵衛景通おきつうひょうえかげみちもうしそろ永正えいしょう十一(十七)年駿河国するがのくに興津おきつに生れ、今川治部大輔いまがわじぶたいふ殿に仕え、同国清見きよみせきに住居いたし候。永禄えいろく三年五月二十日今川殿陣亡じんぼう遊ばされそろ時、景通かげみち御供おともいたし候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
甲州には武田家が威をふるっていた。その頃金兵衛という商人があった。いわゆる今日のブローカーであった。永禄えいろく四年の夏のことであったが、小諸こもろの町へ出ようとして、四阿あずま山の峠へ差しかかった。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
故に、この民を持っても、よくこの民の心を持ち得ない国主が、過去永禄えいろく以来、滔々とうとう、亡び去っていたのも当然だった。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美濃みのの国岐阜の城下に瑞龍寺ずいりゅうじという寺がある。永禄えいろく天正てんしょうのころに南化和尚なんかおしょうという偉い僧がいて、戦国の世にもかかわらず、常に諸国から文人や画家の集まって来るものが絶えなかった。
蒲生鶴千代 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
天文てんもん永禄えいろくの世頃から見れば、ずいぶんって来てはいるが、なお少し山間僻地さんかんへきちに入れば、さながら百鬼夜行のごときものと随所に出会うのが常であった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ことし永禄えいろく四年という天下大乱の中を、いかに正月とはいえ、こうした荒武者ばかりの席に平然とのぞんでともに酒をみ、ともに歓を尽しているこの公卿も
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
苛烈かれつなる永禄えいろく元亀げんき天正てんしょうの世にかけて、彼女も良人に遅れぬものを日々に学んでいたのである。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永禄えいろく元亀げんき、天正へかけての武田、上杉、北条、その他の交戦地であった軍用路を、そのまま後の旅人が往還しているだけで、従って、裏街道も表街道もありはしない。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
明年——永禄えいろく五年正月には、岡崎の松平元康もとやすが、この清洲城へ初の訪問をして、信長様と対面あるだろうなどという内々の儀も、ひそやかながら逸早く家中には知れ渡った。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
きょうは、永禄えいろく三年、五月十九日にてあるぞよ。信長はじめ、そち達の命日と覚ゆるなれ。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
弘治こうじ三年から永禄えいろく元年、二年——と領内の治績はそういうふうに良くなって来た。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
きょうこの時の彼の戦法は、あだかも永禄えいろくの頃、越後の上杉謙信が、敵信玄の陣域深くへ基地を取って、一鞭いちべん妻女山さいじょさんから川中島の敵幕中へ突入した——あの捨身不退しゃしんふたいの構えにも似ている。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
竹中半兵衛や於通の父小野政秀などと同列のいわゆる美濃衆といわれた稲葉山の斎藤義龍よしたつの家中であり、覇府はふ斎藤が、信長に亡ぼされた永禄えいろく六年を転機として、竹中一族も、於通の父も、海北友松も
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そしてこの孫子そんし之旗や十三字旗が、ここを立っては川中島へ赴き、その帰るごとに、帰って来た勇士たちも領民も、同じ感激と涙とれるばかりの喊声かんせいで、迎え合い答え合った永禄えいろく前後の頃が、今は
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永禄えいろく五年の正月、信長は二十九歳の元旦を迎えた。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永禄えいろく四年の六月、桶狭間おけはざまの合戦の翌る年。
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永禄えいろく九年十月九日。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永禄えいろく八年の新春。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)