うつ)” の例文
とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分ののどから老人のようにしわがれたうつろな声の放たれるのを苦々にがにがしく聞いた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
……なんの色もない、うつろな眼であった。彼はまじまじと月心尼の顔を見戍みまもっていたが、やがて寂しそうに首を振りながら云った。
春いくたび (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ここ、彼処かしこに、同じ驚愕と、同じうつろな叫びが聞え出した。すさまじい勢いでぶつけて来たこの山にはすでに人影もなかったのである。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
複雑なものが彼らの胸中に去来していたにちがいないのに、彼らはむしろうつろな表情をしていた。横から朝の陽がしているのだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
こんなことは、みんな私にはつまらないものだつたので、私のうつろな心は、小さな飢ゑた一羽の駒鳥こまどりの姿に、より生々いき/\と惹きつけられた。
又、萬有のすぐれてめでたき事もくうにはあらず又かのうつ蘆莖あしぐきそよぎもくうならず、裏海りかいはまアラルのふもとなる古塚ふるづかの上に坐して
頌歌 (旧字旧仮名) / ポール・クローデル(著)
さてうべないし上にて、そのしがたきに心づきても、いて当時の心うつろなりしをおおい隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
二人とも奥歯に金の義歯をめていたのですよ。その義歯の中がうつろになっていて、強い毒薬が仕込んであったのでしょう。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
技師はそう云って、もう見えはじめた事務所の灯のほうへ、なにかまだ解けきらぬ謎を追い求めるようなうつろな視線を、ボンヤリ投げ掛るのであった。
坑鬼 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
そして、うつろな、笑いをげらげらとやってみたり、ときどき嫌いなヤンへにッと流眄ながしめを送ったりする。彼女もだんだん、正気を失いはじめてきたのだ。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
不思議な悲哀感が、私をおそった。私は、再び吉良兵曹長の方は見ず、うつろなまなざしを卓の上に投げていた。騒ぎはますます激しくなって行くようであった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
おのぶは腰が抜けたようになって、うつろな眼をきょとんと見ひらいたまま、ひと口も物を言わなかった。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
が咽喉や肺の中がぢいぢいとうつろな音を立て、後頭部なぞは、他人のもののやうに無感覚になつてゐた。おまけに鼻汁ばかり流れ出て、汚ならしいつたらなかつた。
現代詩 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
この力ないうつろな希望に身も心もまかせ切って、そのおかげでうっとり酔い心地になってしまった。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
うつろさ、冷たさ、自由のもっている戦慄とでもいうようなものを感じる時、そのうめき、叫び、あるいはそれへの陶酔と驚嘆が、いろいろの芸術となってあらわれてくるのである。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
龍介はうつろな気持で天井を見ながら「ばか」声を出してひくく言ってみた。
雪の夜 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
うつろな抜けのようなぼんやりした状態ながら、同時に激しく何かをあえぎ求めて心がヒリヒリしているこの日頃の、どうにも始末のつかない自分の有様をその友人に訴えたところ、——友人に
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
喬之助は、春の野に蝶を追うような様子で、フラフラとおよぐように、前へ出て来た。パラリ、結び目の解けた手拭のはしを口にくわえて、やはり、右手めてにはだらりと抜刀ぬきみげている。うつろな表情かおだ。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
野の上の月のありかに霧かかりうつろのさまの夕月夜かな
はてなく青いあのうつ
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
私は遊離した状態に在る過去を現在と対立させて、その比較の上に個性の座位を造ろうとするうつろな企てにはき果てたのだ。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
なんの感動もない、うつろな乾いた声で、……そして表情もそぶりも、同じように無内容な白じらしいものだったのである。
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
遂に生れた土地を去るという——この何かはかなげな思いが胸を暗くするばかりである。女や子供にとってはすべてがうつろであった。茫然ぼうぜんと居すくんでいた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
うつろに放たれた視線は更に遠くを捕えようとしているらしかった。胸の中に泡立ってたぎり立つものをいきなりねじ伏せると、ふいに宇治は背を向けて小屋の外に歩き出していた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
元気な言葉だが、うつろな声だった。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
うつろな、咎めるような口調だ。
乏しい電灯の光の下、木目きめの荒れた卓を前にし、吉良兵曹長は軍刀を支えたまま、うつろな眼を凝然ぎょうぜんと壁にそそいでいた。卓の上には湯呑みがからのまま、しんと静まりかえっていた。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
何も見ていないようなうつろな視界に、黒々とした阿賀妻の気組みを読み取った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
正吉は壁へもたれたままうつろな眼でくうみつめていた、——とろんと濁った眼だった、蒼白あおじろい紙のように乾いた皮膚、げっそりとこけた頬、つやを失った髪の毛……お紋は慄然りつぜんとして眼を外向けながら
お美津簪 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
男は顔を彼等の方に向けてうつろなまなざしを開いていた。唇が僅か動いて乾いた声で何かを言うらしい。何を言っているか判らない。声と言うよりは咽喉のどから吹いて来る風のような音であった。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
低いうつろな笑い声のようなものが、聞えたと思った。私は思わずふり返った。壕を支えた木組きぐみによりかかって、背の高い吉良兵曹長の顔は、ろうのように血の気を失い、仮面に似た無表情であった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)