樟脳しょうのう)” の例文
旧字:樟腦
学校へ行く時、母上が襟巻えりまきをなさいとて、箪笥たんす曳出ひきだしを引開けた。冷えた広い座敷の空気に、樟脳しょうのうにおいが身に浸渡るように匂った。
(新字新仮名) / 永井荷風(著)
私の鼻は着物から放つ樟脳しょうのうの香を嗅ぎ、私の頬は羽二重の裂地きれじにふうわりと撫でられ、胸と腹とは信一の生暖かい体の重味を感じている。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
花鬘けまんをそのくびにかけ、果を供え、樟脳しょうのうに点火してくゆらせ廻り、香をき飯餅を奉る、祠官神前に供えた椰子を砕き一、二片を信徒に与う。
もっともわが国においても、郵便、電信、鉄道等はすでに国営事業となり、塩、煙草たばこ樟脳しょうのう等もまた政府の専売になっている。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
おまけに胸がムカ付いて眼がまわりますようで、口の中に腐った樟脳しょうのうのような臭気が致しまして……コンナ気持は生れて初めてで御座います。
S岬西洋婦人絞殺事件 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐あぐらいて、下女の買って来た樟脳しょうのうを、小さな紙片かみぎれに取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
こんな話をしているうちに、聯想れんそうは聯想を生んで、台湾の樟脳しょうのうの話が始まる。樺太からふとのテレベン油の話が始まるのである。
里芋の芽と不動の目 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
樟脳しょうのうとナフタリンの匂いのするスカートと花模様のたもとがごちゃごちゃに玄関で賑わって六日目の朝、妹たちが到着した。
百喩経 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
厚い壁でまぶしい日光をさえぎり、外界の音響を遮断した、樟脳しょうのう臭い土蔵の中に、独りぼっちで住んでみたいというのは、彼の長年のあこがれであった。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
と鬼王丸が叫んだ時には、一抹の灰が残ったばかり、鼻をく鋭い樟脳しょうのうの匂いが空気を一杯充たしていた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今でこそ樟脳しょうのうくさいお殿様とのさまたまりたる華族会館に相応ふさわしい古風な建造物であるが、当時は鹿鳴館といえば倫敦ロンドン巴黎パリの燦爛たる新文明の栄華を複現した玉のうてなであって
スーッとする樟脳しょうのうくさい匂いと、それになんだか胸のわるくなるような別の臭いとが交っていた。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
御顔に匂いかかる樟脳しょうのうの香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶おもいでが御胸の中を往たり来たりするという御様子で、私が御側に居ることすら忘れて御了いなすったようでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
彼の父は明治四十三年本島人脳丁(樟脳しょうのう採取人夫)の首を伐って逃亡した。たちまち警察隊によって追跡されたが、深い暗い密林のなかに隠れひそんで、巧みに逮捕を免れた。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
内儀さんは樟脳しょうのうの匂いのみ込んだような軟かいほどきものを一枚出して、お庄に渡した。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にまで、たくさんの樟脳しょうのうや修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、どうにか手に入れた小さなかばんの中に納めた。
猛獣の形に彫った樟脳しょうのうの塊りを、血の出るほど高い金で買わされて、街の人達の様にそれを鼻にあてて安心するのだが、十万人のうち二万の男と、一万人の児童が毎年墓場もなく
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
「武士たるものの魂がそれほど大事ならば、大道中だいどうなかへころがしておくがものはなかろう、樟脳しょうのうの五斗八升もふりかけて、七重の箱の奥へ八重の鍵でもかけてしまっておいたらどうだ」
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
河豚ふぐにあたれば、樟脳しょうのうの粉を湯に溶解してこれをのみ、吐血をなせば、串柿くしがきを黒焼きにし、これを粉にしてのみ、あるいは、打咽には柿のへたを紛にしてこれをのみ、耳に水が入れば
妖怪学一斑 (新字新仮名) / 井上円了(著)
って来た虫は熱湯や樟脳しょうのうで殺して菓子折りの標本箱へきれいに並べた。
花物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
茴香末ういきょうまつ、ナフタリン、樟脳しょうのう硫安りゅうあん(硫酸アンモニウム)まで入れる。
江戸前の釣り (新字新仮名) / 三遊亭金馬(著)
本箱に樟脳しょうのうをいれたりして、永久に保存したでありましょう。
書を愛して書を持たず (新字新仮名) / 小川未明(著)
本棚のしみを防ぐ樟脳しょうのうの目にしむ如きにおいは久しくこの座敷に来なかったわたしの怠慢を詰責きっせきするもののように思われた。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
黴臭かびくさいにおいと、軽い樟脳しょうのうみたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床おくゆかしい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
まっ暗な、樟脳しょうのう臭い長持の中は、妙に居心地がよかった。格太郎は少年時代のなつかしい思出に、ふと涙ぐましくなっていた。この古い長持は、死んだ母親の嫁入り道具の一つだった。
お勢登場 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
いやこの俺が目付けてみせる。……それから金銀円方として、金粉、銀粉、鹿頭、白花蛇、烏蛇からすへび樟脳しょうのう、虎胆の七種を、丸薬としてませもするが、これとて対症的療法に過ぎない。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
樟脳しょうのうの匂いの芬々ぷんぷんするなかで、母親を相手に、老婦としよりはまたお饒舌しゃべりを始めていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産する硫黄いおう樟脳しょうのう生糸きいと、それから金銀のたぐいなぞが、その最初のおもなる目的物であったのだ。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
山のなかだから、人の住んでる所は樟脳しょうのうる小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
お千代は樟脳しょうのうにおいを心持よさそうに吸込すいこみながら、抽斗を引きあけるたびに、まアまアと驚嘆の声を発し
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それをやっと辛抱しんぼうして、蔵の中へたどりついても、そこも同じ様に真っ暗で、樟脳しょうのうのほのかなかおりに混って、冷い、かび臭い蔵特有の一種の匂いが、ゾーッと身を包むのでございます。
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)