惘然ぼうぜん)” の例文
ジャン・ヴァルジャンは我を忘れて、彼女を惘然ぼうぜんと自分の胸に抱きしめた。彼はほとんど彼女をまた取り戻したような心地になった。
サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然ぼうぜんとしていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。
低い天床、雨のしみた跡のあるげた壁……彼は眉をしかめ、溜息ためいきをついて、そうして写生帖をふところにつっこんで、惘然ぼうぜんと土間へおりる。
おれの女房 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
列伝れつでん第七十太史公たいしこう自序の最後の筆をいたとき、司馬遷はったまま惘然ぼうぜんとした。深い溜息ためいきが腹の底から出た。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
彼は惘然ぼうぜんとして殆ど我を失へるに、電光の如く隣より伸来のびきたれる猿臂えんぴは鼻のさきなる一枚の骨牌かるた引攫ひきさらへば
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
と叫んだきり、しばらくは天空によじのぼってゆく怪塔ロケットをただ惘然ぼうぜんとながめつくしたことでした。
怪塔王 (新字新仮名) / 海野十三(著)
うちめぐり再び舞ひもどりて松の梢にひら/\水鉢の上にひら/\一吹き風に吹きつれて高く吹かれながら向ふの屋根に隠れたる時我にもあらず惘然ぼうぜんとして自失す。
小園の記 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
気狂と思われるまで下品にならなければ世の中は成功せんものかなと惘然ぼうぜんとして西片町へ帰って来た。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
満身の気力一時に抜落ぬけおち候やうなる心地致され、唯惘然ぼうぜんとして榎の梢を眺め暮すばかりにて有之候。
榎物語 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
惘然ぼうぜんとして耳を傾くれば、金之助はその筋いたむ、左の二の腕を撫でつついった。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
久く考えていて、「あ、お勢の事か」とからくして憶い出しは憶い出しても、宛然さながら世を隔てた事の如くで、面白くも可笑おかしくも無く、そのままに思い棄てた、しばらくは惘然ぼうぜんとして気の抜けた顔をしていた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
その王賓おうひんう、賓もまたまみえず、ただはるかに語って曰く、和尚おしょう誤れり、和尚誤れりと。またいて姉を見る、姉これをののしる。道衍惘然ぼうぜんたりと。道衍の姉、儒を奉じぶつしりぞくるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
危険の間、ジルノルマン氏は孫の枕頭まくらもとにつき添いながら惘然ぼうぜんとして、マリユスと同様に死んでるのか生きてるのかわからなかった。
やがて家じゅうの者が心痛しだした。彼女は例のとおりしかられ、包帯をされ、寝かされ、肉体の苦痛と内心の喜びとに浮かされて惘然ぼうぜんとなった。
甲斐は盃を持ったまま惘然ぼうぜんと炉の火を眺めていた。娘たちの問答は、彼をものかなしいような気分に包んだ。
ある時は惘然ぼうぜんとして悲しいともなく苦しいともなく、我にもあらで脱殻ぬけがらのようになって居る。
(新字新仮名) / 正岡子規(著)
ただ惘然ぼうぜんとして水のおもてを眺めをり候処、突然うしろより愚僧の肩をたたきコレサ良乗殿。
榎物語 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
渠はしばらく惘然ぼうぜんとして佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりをみまわせり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮ねしずまりたる気勢けはいなり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
学校友達と名宣なのりし客はそのことばの如く重ねてぬ。不思議の対面におどろき惑へる貫一は、迅雷じんらいの耳をおほふにいとまあらざらんやうにはげしく吾を失ひて、とみにはその惘然ぼうぜんたるより覚むるを得ざるなりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
宗助はただ惘然ぼうぜんとした。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ジルノルマン伯母おばは、古ぼけた家庭にかく突然光がさし込んできたのを惘然ぼうぜんとしてながめていた。惘然さのうちには何らの悪意もなかった。
いい顔色をしていらっしゃるとか、今日は野の景色がたいへんいいとか言われると、初めのうちクリストフは惘然ぼうぜんとして、なんの冗談かと怪しんだ。
男がはらの底をさらけだしての告白である。鉄之助も心をうたれた。汀には、「ああ」と思い当る多くの回想があった、そして忠秋までが、さかずきを手に惘然ぼうぜんと耳を傾けていた。
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
惘然ぼうぜんと休み居る内、ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。今朝寐覚ねざめにはちよつと思ひ出したるがその後今まで全く忘れ居しなり。
明治卅三年十月十五日記事 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
今は取付く島も無くて、満枝はしば惘然ぼうぜんとしてゐたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
しかし吾人ごじんはその仲間ではない。吾人に取っては、ワーテルローは単に自由の惘然ぼうぜん自失した一時期を画するものに過ぎない。
子供はランプの炎と老人の目差まなざしとに驚き、ただ惘然ぼうぜんとして身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。
凉軒は額を押えて棒立ちになり、五郎太は刀をとり落し、右腕を抱えて苦痛のうめきをあげ、他の一人は刈田の中で尻もちをついたまま、陰気なような眼つきで、惘然ぼうぜんとこっちを見ていた。
そして彼ははるか恐ろしいほど下の方に、街灯の光にすかして、雨にぬれてるまっ黒な街路の舗石を、惘然ぼうぜんとうちながめた。
彼女は幾時間も東洋婦人めいた惘然ぼうぜんさのうちに沈み込んでいたが、それから脱することを承諾したときには、まったく別人になっていた。彼女は歩くのを好んだ。
暴徒らは深い畏敬いけいの念でその前に道を開いた。彼は惘然ぼうぜんとしてあとに退さがったアンジョーラの手から、軍旗を奪い取った。
彼は舞台から飛び出して、呆然ぼうぜんと口を開きながらそれらの演奏に臨んでる聴衆をもなぐりつけた。聴衆は惘然ぼうぜんとして、笑っていいか怒っていいかもわからなかった。
そのしっかりした堅固な足音が廊下のゆかの上を遠ざかってゆくのを聞きながら、マドレーヌ氏は惘然ぼうぜんと考えに沈んだ。
燃えたつやさしい光。心はあまりに大きな楽しさに圧倒されて、惘然ぼうぜんとなり黙り込んでゆく。春の初光のうち震える大地の沈黙、熱っぽいものうさ、けだるい微笑……。
そして頭から足の先まで震え上がり、ちょっと惘然ぼうぜんとしていた後、ふり返りもせず声も立てず一目散に逃げ出した。
早くも停車場で、荷物取扱場に押し合ってる人込みや、出口の前に入り乱れてる馬車の騒々しさなどに、彼らは惘然ぼうぜんとしてしまった。雨が降っていた。つじ馬車が見出せなかった。
ユシュルーかみさんとマトロートとジブロットとが、恐怖のため三様の変化を受けて、ひとりは惘然ぼうぜんとしひとりは息をはずましひとりはほんとに目をさまし
人々はなおよく見るために立上がった。やがて満堂の歓喜となった。それには少しも悪意はこもってはいなかったけれど、ごく気丈な名手をも惘然ぼうぜんたらしむるほどのものだった。
地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然あぜんとしておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然ぼうぜんとしてしまったかのようだった。
その足音が聞こえるときに、アントアネットは初めて惘然ぼうぜんとしていたのから我に返った。そして暗闇くらやみの中に微笑を浮かべて、立ち上がって電燈をつけた。弟の笑い声を聞くと元気になるのだった。
マリユスは立ち上がって、夢の中に現われて来る影のようなその女を、惘然ぼうぜんとして見守った。
彼は惘然ぼうぜんたる状態から身をもぎ離して、室の中を少し歩いた。ピアノに心ひかれまた脅かされた。ピアノを見ないようにした。しかしそのそばを通りかかると、手を差し出さずにはいられなかった。
けれどもまさしく自分のものであることを感じていた。だれがそれを自分にくれたかをも察していた。一種の恐ろしさに満ちた喜びを感じていた。彼女は満足であった。がことに惘然ぼうぜんとしていた。
そして激しい熱情の域へまで達したので、クリストフはぞっと身を震わした。なぜなら彼には、彼女が自分自身の心の声であるように思えたからである。彼は彼女が歌ってるのを惘然ぼうぜんとうちながめた。
聴衆は一時惘然ぼうぜんとした。やがて彼は冷酷な調子で言った。