行幸みゆき)” の例文
ぼくはこの地にかつて平安朝の無数の都人みやこびとやら、白河、鳥羽の諸帝がいくたびも行幸みゆきされた世代の“昔の顔”を一つ見つけ出した。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
丸ビルと行幸みゆき道路を隔てて近く姉妹館が建つそうである。それはホテルにするという事である。くて大玄関の左右の翼が完備することになる。
丸の内 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
この十二月に洛西らくさいの大原野の行幸みゆきがあって、だれも皆お行列の見物に出た。六条院からも夫人がたが車で拝見に行った。
源氏物語:29 行幸 (新字新仮名) / 紫式部(著)
即ち明治天皇陛下が即位式そくいしきを挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸みゆきあった其月東京を西南にる三百里、薩摩に近い肥後葦北あしきた水俣みなまたと云う村に生れたのである。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
上野の式場に行幸みゆきある道筋は、はき清められてあったが、市中の泥濘でいねいは、田の中のようだった。
みかどはこれをきこされて、それならばおきないへにほどちか山邊やまべ御狩みかりの行幸みゆきをするふうにしてひめくからと、そのことをおきな承知しようちさせて、きめたひめいへにおなりになりました。
竹取物語 (旧字旧仮名) / 和田万吉(著)
大王おほぎみ行幸みゆきかあらし旗立てて雪の御門みかどを騎馬出づる見ゆ
雀の卵 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「あれはな、後村上天皇ごむらかみてんのうがいま行幸みゆきになったところだ」
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
そのむかし、この顕家もまだ十四歳の左中将の若者であったころ、北山殿どの行幸みゆきに、花の御宴ぎょえんばいして、陵王りょうおうの舞を舞ったことがある。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
春秋の行幸みゆきをお迎えになる時にだけ昔の御生活がお心の上に姿を現わすこともあるのであった。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
「俊寛法師の鹿ししたに山荘にも、ひそかに、行幸みゆきましまして、このたびの盟約には、ひとしお、お力を入れているようにうけたまわりまする」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昔の朱雀すざく院の行幸みゆきに青海波が絶妙の技であったのを覚えている人たちは、源氏の君と当時のとうの中将のようにこの若い二人の高官がすぐれた後継者として現われてきたことを言い
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
逆鱗げきりんは申すまでもない。お留守をあずかっていた公卿輩くげばらはもちろんのこと、行幸みゆきいてもどった人々も、その御気色みけしき慴伏しょうふくして
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大弐のおやかたの奥様が清水きよみずの観世音寺へお参りになった時の御様子をご存じですか、みかど様の行幸みゆきがあれ以上のものとは思えません。あなたは思い切ったひどいことをお言いになりますね
源氏物語:22 玉鬘 (新字新仮名) / 紫式部(著)
あくる二十八日は、法華山へ行幸みゆきされ、あとは一路いそいで月のすえ三十日、兵庫ひょうご福厳寺ふくごんじにつき、ここで中一日は御休息あったとある。
せめて六条院だけを最高の地位にえたいというお望みも実現されないことを始終残念に思召す帝であったが、今年は四十の賀に託して六条院へ行幸みゆきをあそばされたい思召しであった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
「この姿、思い出されぬのもムリはない。それに四年も前——男山八幡の行幸みゆき供奉ぐぶして、楠木殿も足利殿も山上に明かした一夜のこと」
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あの六条院の行幸みゆきのあった直後から朱雀すざく院のみかどは御病気になっておいでになった。平生から御病身な方ではあったが、今度の病におなりになってからは非常に心細く前途を思召おぼしめすのであった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
やがての、仁和寺にんなじ行幸みゆきには、心ゆくばかり、きそうて、春の口惜しさをそそぎ、かたがたとともに、かいを叫びたいと存ずる。
微行しのびとして来たのであるが行幸みゆきにひとしい威儀が知らず知らず添っていた。
源氏物語:29 行幸 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「許田へ行幸みゆきあって、親しく臣らと共に狩猟をなされては如何ですか。清澄な好日つづきで、野外の大気もひとしおですが」
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十月の二十日過ぎに六条院へ行幸みゆきがあった。興の多い日になることを予期されて、主人の院は朱雀すざく院をも御招待あそばされたのであったから、珍しい盛儀であると世人も思ってこの日を待っていた。
源氏物語:33 藤のうら葉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「あれは建武元年の秋、紅葉のさかり頃。石清水いわしみず行幸みゆきにしたがい、われらも、また足利殿も、供奉ぐぶいたしたことがあった」
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ま、よかろう。行幸みゆきも事なくすみ、わしも無事にゆうべは眠った。が、じつはの師直。ほんとに眠れたのは明け方だった」
行幸ぎょうこう御幸ごこうを仰ぐのはめずらしくない都の男女だったが、朝覲ちょうきん行幸みゆきと知って「……今日ばかりは」の、ひしめきらしい。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「やむを得ません。この上は、帝おんみずから、孔明の門に行幸みゆきされ、親しく彼の意中をお問い遊ばすしかないでしょう」
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
五月の加茂競馬以外にも、諸所の神社で行われるし、天皇、上皇、妃たちの行幸みゆきにあたり、離宮や公卿大臣の第宅でも、私邸競馬がたびたびある。
平家のころは、ここは「湯垢離ゆごりの場」といっていたから、熊野行幸みゆきの随身たちが、わんさと、泊ったことだろうと思う。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上皇が熊野へ行幸みゆきのあいだは、御所のお留守の者ばかりなので、参内する公卿くげもなかったし、公用もほとんどなかった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
行幸みゆき待ちの庭は地獄と化して、幾つもの死体があえなく転がっている。中でも生け捕られた北条残党の二、三は半殺しの目にあって曳かれて行った。
開封かいほう郊外の離宮“龍符宮りゅうふきゅう”から十里の野は、御狩猟みかり行幸みゆきに染められて、壮観な狩場の陣がいちめん展開されていた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「うけたまわれば明三日、みかどには朝覲ちょうきん行幸みゆき(天皇が父皇の御所へ拝賀にゆくこと)あらせられる由。今日、冷泉どのをお訪ねした折、伺いましたが」
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
(我れ呉とともに生きず)と、宣言してからの彼は、以来毎日のように練兵場へ行幸みゆきして、みずから兵をえっし、軍馬を訓練し、ひたすらその日を期していた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この三月中には、さらに叡山へ行幸みゆきされ、大講堂の御供養とか、日吉社参ひえしゃさんとかの、御予定もはやあるとか。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天皇行幸みゆきとあわせて、紀州の高野山、播磨はりま大山寺たいせんじ伯耆ほうきの大社、越前の平泉寺——この地方四大社寺へたいしても、一朝のさいには、王事に協力あるべしと
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「して、あなた様には、東大寺行幸みゆきの御帰洛にも供奉ぐぶなされず、軽いお身装みなりで、そもいずこへ」
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
後醍醐ごだいご天皇が笠置山かさぎやま行幸みゆき遊ばされて、官軍を召しつのられた折には、柳生一族からも、中之坊という勤皇僧が出て、笠置衆徒に列し、正成まさしげ帷幕いばくに参じ、建武の復古によく働いた。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そういっても、友だちばらにはわかっていた。——この秋には、天皇、上皇おそろいで、ふたたび仁和寺にんなじ行幸みゆき内儀ないぎがあり、同日同所において、競馬を覧給みたもうと、さたされている。
白河、後白河、堀河、高倉帝以後も、歴代、行幸みゆきは度々であった。随行の公卿百官から従者まで、数百名にのぼる行旅がえんえんと京都からこの山岳地まで二十日がかりで来たわけだ。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
西園寺家の別荘、北山ノ亭に、花の行幸みゆきがあった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
の北山行幸みゆきだった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いつも行幸みゆき鳳輦みくるま
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)