ひと)” の例文
松の間から見えるひとが、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。しかしそれが唐辛子とうがらしであると云う事だけは一目ですぐ分った。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まがりなりにも城主であったものが、仮小屋のなかにひとりで起居している姿はかなしかった。もとの家臣にとっては気持の負担であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
「大いにあるのよ。母様には、恋愛なんかから超越して、ひとり高く浄しというような、私を見ているのが趣味なようなところがあるのよ」
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
安らかに祈らしてやれ、哀れな少年だ、つんぼにして、おしにして、しかもひとりなる異国少年——祈るがままに、さまたげず祈らしてやるがよろしい。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
ひとりになつてからも、あるひは、父の生きてゐた間も、娘は自分の声の美しいことが一番悲しい事実であつた。
我が愛する詩人の伝記 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
面白いやうにひとりの己れに爽やかな悦びを感じてゐた、嘗て「愚」とんで嘆いた鈍い感情が、太く凝り固まつて、反つて静かな「感謝」を覚えさせてゐた
山を越えて (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
宗之助は少年時代から負けず嫌いだった、頭脳的にも肉体的にも常にひとりぬきんでなくては承知しなかった。
彩虹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
北佛蘭西の寂しい海岸のひとつ家の戸口に坐つてゐる老女の姿とを、同時に眼前に浮ばせられる。
北佛蘭西の寂しい海岸のひとつ家の戸口に坐つてゐる老女の姿とを、同時に眼前に浮ばせられる。
ひとりこれ等の姉妹と道を異にしたるか、終に帰り来らざる「理想」は法苑林ほうおんりんの樹間に「愛」と相むつみ語らふならむといふに在りて、冷艶れいえん素香の美、今の仏詩壇に冠たる詩なり。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
この池はいったいどんな仲間をもっているというのだろう? しかもそれはその紺碧こんぺきの水の色のうちに、青い憂鬱魔ではなく青衣の天使をもっているのだ。太陽はひとりである。
自暴自棄への道は一度ならず私の眼の前に見えたのです。ひとり身であることほど人のあなどりを受け易いものはありません。コリン家は世間に対しては私の後楯ともなってくれたのです。
聖アンデルセン (新字新仮名) / 小山清(著)
十年も旦那の留守居をしてひとりのねやを守り通したことのある奥座敷からも、養子夫婦をはじめ奉公人まで家内一同膳を並べて食う楽みもなくなったような広いがらんとした台所からも。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ひとりでいるのがこわいのだ。過去が遠慮もなく眼をさますからだった。それは龍介にとって亡霊だった。——酒でもよかった。が、酒では酔えない彼はかえって惨めになるのを知っていた。
雪の夜 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と鞋下あいかに踏みつゝ、我が伯母のひとり住む粟野あはのの谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如きあをき空に浮びて、見渡す限り白銀しろがねを延べたるばかり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
それも案外、墨染すみぞめの身寄りの家へ行ってみたら、便りの知れることかもしれぬ。彼女は、ひとりでそう思い励ますのだった。先に手をつないで歩いてゆく今若と乙若のふたりを後から見守りながら——
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こうして、来るべき年の春まで、深雪の下に埋もれる、この峡谷の絶底のひとつ屋には、豆腐造りの中年夫婦が、乳呑子とただ三人、留守居を勤めるのだという——繩や草鞋の手細工などをやりながら。
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
げにたゞわがためにわが爲に、ひとむなしくわれは咲きにほふと
愛しさをふかく心にひそめ生きひとつ灯に吐く独語のありぬ
遺愛集:02 遺愛集 (新字新仮名) / 島秋人(著)
ひとり離れて遠い思いに浸らないわけにはゆかなかった。
左千夫先生への追憶 (新字新仮名) / 石原純(著)
ひとつなるはなほさら、連ねし姿もあはれなり。
あきあはせ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
あゝ ひとりの天の座に青き菊の花匂へり
希臘十字 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
実際撤回しなければならないほど、容体ようだいあやしくなって来た。ただ向うに見える一点の灯火ともしびが、今夜の運命を決するひとであると覚悟して、寂寞せきばくたる原を真直まっすぐに横切った。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「慧能ガ厳父ノ本貫ハ范陽はんようナリ。左降さこうシテ嶺南ニ流レテ新州ノ百姓トナル。コノ身不幸ニシテ父又早クもうス。老母ひとのこル。南海ニ移リ来ル。艱辛貧乏。まちニ於テ柴ヲ売ル」
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そこには常に諸国から志士人傑が集まっていて、慷慨悲憤こうがいひふんの議論の絶えるときがなかった。しかしかれはその中にあっても悄然しょうぜんひと緘黙かんもくしていた。どのような熱狂にも巻きこまれなかった。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、ひとり思に沈むといふ様子であつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
何となく指触れしむる獄の灯にひとつやかんのあたたかき腹
遺愛集:02 遺愛集 (新字新仮名) / 島秋人(著)
篠田と老人とを乗せたる一りやうは、驀地まつしぐらひとせぬ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
あゝ究極の美なるかな、げにわれこそはひとりなれ。
かくてひとり人間のむれやらはれて解くに由なき
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
ひとり 廻り澄むもの
独楽 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
かくてひとり人間の群やらはれて解くに由なき
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
無爲寂寞じやくまくの國にひとり立つをおぼ
光明道くわうみやうだう此原このはら眞晝まひるひとり過ぎゆかば
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
光明道こうみようどう此原このはら真昼まひるひとり過ぎゆかば
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)