延喜えんぎ)” の例文
……のみならず、こんな皇室の在り方も正し、王政を延喜えんぎ天暦てんりゃくの古制にかえして、鎌倉のごとき醜武者しこむしゃの府は、これを一そうせねばならぬ
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「さよう、今年すなわち慶応の三年は皇紀二千五百二十年じゃによって、今より千年の昔は——さよう——延喜えんぎ天暦てんりゃくの頃になり申すかな」
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
あいつ、延喜えんぎのいゝことをしてくれたもんだ。新年早々黄金饅頭を撒き込んでくれるなんざ、ふだん女郎の尻を撫でてるだけのことアある。
曲亭馬琴 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
菅家くわんけ筑紫つくしにてこうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)
ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜えんぎがよい、くくざるというから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。
私は延喜えんぎの聖帝から伝わりまして三代目の芸を継いだ者でございますが、不運な私は俗界のこととともに音楽もいったんは捨ててしまったのでございましたが
源氏物語:13 明石 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「これを見れば延喜えんぎ御代みよに住む心地する」といって、明暮あけくれに源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていてまなかったところは
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
だがまあそれも孰方でもよいとして、北の方奪取事件があってから四五年の後、延喜えんぎ九年四月四日に、時平が三十九歳の若さをもっ卒去そっきょしたことははっきりしている。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
世に、延喜えんぎ天暦てんりやくと申し上げるのであるが、この頃漸く萌したのは、藤原氏の横暴であつた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
幾らか乱れたものもありますが、それは少数で、到底延喜えんぎ時代に書かれたものとは思われませぬ。
古代国語の音韻に就いて (新字新仮名) / 橋本進吉(著)
烏帽子えぼし直垂ひたたれ伶人れいじん綾錦あやにしき水干すいかんに下げ髪の童子、紫衣しいの法主が練り出し、万歳楽まんざいらく延喜えんぎ楽を奏するとかいうことは、昔の風俗を保存するとしてはよろしいかもしれぬが
教育と迷信 (新字新仮名) / 丘浅次郎(著)
えたる人ひとりも聞え侍らぬにて思ひ合はするに、応永の比、永享年中に、諸道の明匠出うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜えんぎ一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉
古い伝えは延喜えんぎの昔に。あのや蝉丸せみまる逆髪さかがみ様が。何の因果か二人も揃うて。盲人めくらと狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門みかどに棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂おうさか山の。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
実に昔切り立てには何故いやなんな頭をするか、厭らしい延喜えんぎのわりい、とよく笑いましたものであったが、散髪ざんぎりが縁起が悪い頭だか、野郎頭の方が縁起が悪いのかとんと分りませんが
松と藤芸妓の替紋 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
現に延喜えんぎ御門みかど御代みよには、五条あたりの柿の梢に、七日なのかの間天狗が御仏みほとけの形となって、白毫光びゃくごうこうを放ったとある。また仏眼寺ぶつげんじ仁照阿闍梨にんしょうあざりを日毎にりょうじに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「されば、世を王朝の昔にかえさんとの叡慮えいりょも御無理ではございませんが、いかんせん、世は変ッて、延喜えんぎ天暦てんりゃくのむかしの比ではありませぬ」
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
菅家くわんけ筑紫つくしにてこうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)
嵯峨さが帝が古万葉集からえらんでお置きになった四巻、延喜えんぎみかどが古今集を支那しな薄藍うすあい色の色紙を継いだ、同じ色の濃く模様の出た唐紙とうしの表紙、同じ色の宝石の軸の巻き物へ
源氏物語:32 梅が枝 (新字新仮名) / 紫式部(著)
延喜えんぎ八年に八十一歳を以て歿したのであるが、生来一向働きのない、好人物と云うだけの男で、かく従三位じゅさんみ大納言の地位にまで昇り得たのは、長生きをしたお蔭であろう。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
延喜えんぎでも無いことを云ふ、と眉を皺むる折も折、戸外おもてを通る納豆売りのふるへ声に覚えある奴が、ちェッ忌〻しい草鞋が切れた、と打独語うちつぶやきて行き過ぐるに女房ます/\気色をあしくし
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
▲「私だってねらっているのさ、本当にあの座敷は延喜えんぎがいゝからねえ、瀬川さんだってあの座敷から身請されたのだし、今度の花里さんだって矢ッ張りなのだから、それに二人とも海軍の方だものねえ」
この七条畷じょうなわてを行くと、なお西に、延喜えんぎ年間のやしろという水薬師みずやくしがある。やぶをへだてた境内の隣りがすぐそれである。
延喜えんぎの帝が御自身で説明をお添えになった古い巻き物のほかに、御自身の御代みよの宮廷にあったはなやかな儀式などをお描かせになった絵巻には、斎宮さいぐう発足の日の大極殿だいごくでんの別れの御櫛みぐしの式は
源氏物語:17 絵合 (新字新仮名) / 紫式部(著)
延喜えんぎ天暦てんりゃくのむかしにかえすというご理想も、当時の世でこそ、万民謳歌の美しい統治の実を結んだでしょうが、今日の土壌では民ぐさの生活なりわいがまるでちがいます。
「さようです。ですが朝廷におかれては、遠き延喜えんぎの制をしたわれ、一切を天皇親政のすがたに復古あるべしとて、先年、建武新政の大令をおきあらせられました」
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
後の将門、相馬の小次郎が、十四歳頃の世は、史家の推定で、延喜えんぎ十六年といわれている。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これからは、頼朝や北条幕府のごときものは絶対につくらず、万機、天皇の直裁とし、遠い延喜えんぎ天暦てんりゃくの制に復古する以上、もっと積極的に、後世の新例をどしどし立てて行くべきである、と。
延喜えんぎ年間のというそこの多賀城碑によれば
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)