享保きょうほう)” の例文
ホルモンなどということを、近ごろやかましく言いますが、この享保きょうほうの昔に対馬守は、そこらの理屈を知っていたのかもしれない。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
享保きょうほう十一年に八代将軍吉宗は小金ヶ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川御成おなりがあった。
鐘ヶ淵 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
江戸に渡ったのはいつ頃か知らぬが、享保きょうほう板の『続江戸砂子すなご』に軽焼屋として浅草誓願寺前茗荷屋みょうがや九兵衛の名が見える。
いよいよ享保きょうほう以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
伊原友三郎が事を起こしてから六年めに当る、享保きょうほう十九年二月に、下総守詮芳が帰国して重職の交代を命じ、藩庁の内外に思いきった粛清をおこなった。
十八条乙 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
これがために元禄時代菱川師宣の盛時に流行したりし墨摺すみずり絵本類の板刻は享保きょうほうに至りておおいすたれたりといふ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
元禄享保きょうほうの頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗おうばく宗の名僧独湛どくたんの嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。
茶屋知らず物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
第四は享保きょうほう時代です。これは享保時代と申しましても、正徳しょうとく頃から宝暦頃までを含んで居るのです。
俳句上の京と江戸 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
それは享保きょうほう十五年(一七三〇)の事実であるが、今日はまたふたたび四十戸余の家ができている。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
享保きょうほう十三年に渡来した象を細かいところまで見て置いたと見え、芭蕉の葉のような大きな耳から眼尻の皺、鼻の曲り、尾の垂れぐあいまで、さながら生きた象を見るよう。
特に享保きょうほう以後はいろいろ取締りの方法も講ぜられ、大検使小検使などいう大名以上の監督者まで付いて、比較的公平なものになりましたが、それでも、役人の目をかすめて
その後、享保きょうほうの頃になって、天草陣惣八覚書おぼえがきという写本が、細川家の人々に読まれた。
恩を返す話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
徳川とくがわ八代の将軍吉宗よしむねの時代(享保きょうほう十四年)その落胤らくいんと名乗って源氏坊げんじぼう天一が出た。
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿のぶしげの世になっていた。辰盛は享保きょうほう十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守でわのかみ信著のぶあきの家をいだ翌年に歿したのである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
享保きょうほうのころ、芝居でする『恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう』や『梅雨小袖昔八丈つゆこそでむかしはちじょう
享保きょうほうの昔からあったとは、どうもおどろいたもので——この石川左近将監の家来けらい竹田某は、日本におけるウインクの元祖だ。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
享保きょうほう検地以来のことをしるしたあたりはことに省いてあって、そのかわり原案の草稿にない文句が半蔵の目についた。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ことに徳川時代にっていよいよさかんになったのはたれも知る通りである。しかもそれが最も行われたのは享保きょうほう以前のことで、その後はかたき討もよほど衰えた。
かたき討雑感 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
鷲津幽林は寛政十年十月十七日享年七十三でぼっした。さればその生れたのは享保きょうほう十一年丙午である。即新井白石あらいはくせきの没した翌年にして安達清河あだちせいか立松東蒙たてまつとうもうの生れた年である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
享保きょうほう十八年、九月十三日の朝、四谷よつや塩町のはずれに小さな道場をもって、義世流の剣道を指南している鈴木伝内が、奥の小座敷で茶を飲みながら、築庭ちくていの秋草を見ているところへ
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
是によって新たに考えられる問題が三つ、まず第一に挙げられた食用種、享保きょうほう年間に我邦わがくにに渡ってきてまだ薬鋪やくほにも出ぬというものが、真の薏苡だということはどうしてきまったろうか。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
享保きょうほう九年の秋であった。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
武士も、この享保きょうほうにいたっては、本来の面目をはなれて、すでに、宮づかえの長袖に堕しているというのである。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
享保きょうほう以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
享保きょうほう三年の冬は暖かい日が多かったので、不運な彼も江戸入りまでは都合のいい旅をつづけて来た。日本橋馬喰町ばくろちょうの佐野屋が定宿じょうやどで、しゅうと家来はここに草鞋わらじの紐を解いた。
籠釣瓶 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
元禄年代には鳥居清信とりいきよのぶが『四場居しばい百人一首』の如き享保きょうほう年代西川風にしかわふうの『絵本かがみ百首』の如きまた長谷川光信はせがわみつのぶ鯛屋貞柳たいやていりゅうの狂歌に絵を添へたる『御伽品鏡おとぎしなかがみ』の如きものあり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
室内へやのどこやらに、白っぽい気がただよいそめて、今にも牛乳屋の車がガラガラ通りそう、お江戸は今、享保きょうほう何年かの三月十五日の朝を迎えようとしている。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に享保きょうほう以前のいにしえに復し、木曾谷中の御停止木おとめぎを解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
柿の木金助は大凧に乗って名古屋城の天主閣に登って、金のしゃちうろこをはがしたと伝えられている。かれは享保きょうほう年間に尾州びしゅう領内をあらし廻った大賊で、その事蹟は諸種の記録にも散見している。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
浮世絵板画はんが元禄げんろく享保きょうほう丹絵たんえ漆絵うるしえより寛保かんぽう宝暦ほうれき紅絵べにえとなり、明和めいわ年間に及び鈴木春信すずきはるのぶによりてここに始めて精巧なる彩色板刻さいしきはんこくの技術を完成し、その佳麗かれいなるが故をもっ吾妻錦絵あずまにしきえの名を得るに至れり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
享保きょうほう十五年、この時の御修復検分としましては、お作事奉行さくじぶぎょう小菅因幡守こすげいなばのかみ、お大工頭だいくがしら近藤郷左衛門こんどうきょうざえもん大棟梁だいとうりょう平内ひらうち郎右衛門ろうえもん、寛保三年、同四年、奉行ぶぎょう曾我日向守そがひゅうがのかみ、お畳奉行たたみぶぎょう別所播磨守べっしょはりまのかみ
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
その中には、遠く慶長けいちょう享保きょうほう年代からの御年貢皆済目録かいさいもくろくがあり、代々持ち伝えても破損と散乱との憂いがあるから、後の子孫のために一巻の軸とすると書き添えた先祖の遺筆も出て来た。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保きょうほう九年の検地の時以来、代官屋敷のあざを石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
享保きょうほう七年のことで、忠相は、四十六歳になる。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
この享保きょうほうの初年に。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)