慶喜よしのぶ)” の例文
鳥羽伏見とばふしみに敗走した将軍慶喜よしのぶ東帰して、江戸城内外戦火を予期して沸騰するさなかから、芝新銭座しばしんせんざに「慶応義塾」が産声うぶごえをあげた。
福沢諭吉 (新字新仮名) / 服部之総(著)
自分の家の子のように呼捨てにしてはばからないことのみならず、江戸の将軍一族に対しても、或いは家茂いえもちがと呼び、慶喜よしのぶがと呼んでいる。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
……しかし、慶喜よしのぶ公の知遇や、恩人の死や、いろいろ義理ずくめの事情で、近いうちに、正式に、藩へお召抱めしかかえになることに決まった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
最後の将軍徳川慶喜よしのぶが上野寛永寺にったのちに、江戸を引き上げた弘前藩の定府じょうふの幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
当時の輿論たる一橋慶喜よしのぶを将軍世子に就けることに反対して、紀州慶福よしとみを推したことと、勅許を待たずして日米条約に調印したことである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
が、残念なことには京阪の間を奔走ほんそうすること三ヵ月、未だ慶喜よしのぶ公にまみえざるに、藩の有力者の手にとらえられてそのまま国元へ送り返されてしまったのだ。
青年の天下 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
いったん共同の敵たる慶喜よしのぶの倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまたやむを得ないとする国内の不一致を世界万国に向かって示したようなものであるから。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
〔評〕大坂城おちいる。徳川慶喜よしのぶ公火船に乘りて江戸に歸り、諸侯を召して罪をつの状を告ぐ。余時に江戸に在り、特に別廳べつちやうし告げて曰ふ。事此に至る、言ふ可きなし。
彼多病にして懦質だしつもとより将軍の器にあらず、故に前将軍家慶いえよしあらかじめその不肖を知り、水戸烈公の子慶喜よしのぶをして一橋家を継がしめ、以て他日将軍たるの地を為さんとせり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
十五代続いた徳川家にようやく没落の悲運が来て、将軍慶喜よしのぶは寛永寺に屏居へいきょし恭順の意を示している一方、幕臣達は隊を組んで安房、下総、会津等へ日に夜に脱走を企てる。
開運の鼓 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
当時、十三代家定の継嗣問題は、一橋慶喜よしのぶと紀伊慶福よしとみ丸をめぐって大きな波紋を描いた。
城中の霜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
尾公慶勝は大将軍慶喜よしのぶのまさに大政を奉還せんとするに際し、時の宰相越前の藩主松平慶永よしながと相議し、幕府と薩長諸藩との間を斡旋あっせんし平和に事を解決せしめんと力めたのである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
新銭座しんせんざ有馬ありまと云う大名の中屋敷を買受かいうけて、引移ひきうつるやいなや鉄砲洲は居留地になり、くれば慶応四年、すなわち明治元年の正月早々、伏見ふしみの戦争が始まって、将軍慶喜よしのぶ公は江戸へ逃げて帰り
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
この復古の大号令に先立つこと二箇月、徳川慶喜よしのぶは土佐の山内容堂の建白により、十月十四日に、政権奉還の表を奉つてゐる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
慶応三年の冬、此年頃醞醸うんぢやうせられてゐた世変がやうやく成熟の期に達して、徳川慶喜よしのぶ大政たいせいを奉還し、将軍の職を辞した。
津下四郎左衛門 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
十五代将軍慶喜よしのぶは、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
道場は、一ツ橋門内の藩邸にあって、門生はもちろん、一ツ橋家(徳川慶喜よしのぶ)の家中の子弟に限られている。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『徳川慶喜よしのぶ公伝』で渋沢栄一しぶさわえいいち説くところであり、総じて経済過程に留意する近来の維新史家たちに卓見として同意を表する向もあるがあんまりそれでは穿うがち過ぎて
志士と経済 (新字新仮名) / 服部之総(著)
〔評〕徳川慶喜よしのぶ公は勤王きんわうの臣たり。幕吏ばくりの要する所となりて朝敵てうてきとなる。猶南洲勤王の臣として終りをくせざるごとし。公はつみゆるし位にじよせらる、南洲は永く反賊はんぞくの名をかうむる、悲しいかな。
この思想中には後日ごじつの将軍たる、徳川政府最後の将軍慶喜よしのぶ公すら含蓄がんちくしたるものにして、烈公、藤田の徒は申すにも及ばず、その散じて、天下の尊攘家を喚起し、その流れて薩摩に入りたるもの
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
○京都一変の上は、中川宮を幽閉し奉り、一橋慶喜よしのぶを下坂せしめ、会津藩の官職を剥奪し、長州を京都の守護職に任ずる。
其他此行には扈随の侯伯にして医官をて行くものが多かつた。一橋中納言慶喜よしのぶもとに清川安策孫の養嗣子温の生父水谷丹下のあつたなどが其一例である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
小御所こごしょ会議、慶喜よしのぶ下坂げはん、大号令の発布、政権奉還の一決と、暗転から明転へと、さしもの紛争がすべて一直下に解決の曙光しょこうが見えてきてからの迎えなのである。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜よしのぶを倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論せいかんろんをめぐって
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
斉昭の尊王攘夷唱導は、たまたまその子慶喜よしのぶの将軍職立候補と時を同じうしてなされた。ペリー来当時の当首相阿部勢州あべせいしゅうは「攘夷」と継嗣問題を交換することのできた協調政治家だった。
尊攘戦略史 (新字新仮名) / 服部之総(著)
徳川中興ちゅうこうの主、八代将軍吉宗よしむね、徳川最後の将軍慶喜よしのぶ、水戸烈公、徳川時代第一の賢相けんしょう松平定信、林家中興ちゅうこうの林たいら、上杉鷹山ようざん公、細川銀台公の如き、近くは井伊直弼なおすけの如き、みな養子たらざるはなし。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
慶喜よしのぶ公が、藩主越中守、会津侯、その他わずか数名の近侍のものと、夜中潜かに軍艦に投じて、逃るるように江戸に下ったこと、幕軍をはじめ、会桑二藩の所隊は
乱世 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それゆゑ家茂は病と称して供奉せず、一橋中納言慶喜よしのぶをして代らしめ、慶喜も亦半途より病と称して還つたさうである。此日柏軒の鹵簿中にありしや否を知らない。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
しかも、京都新政府においては徳川慶喜よしのぶ征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王たるひとしんのうをその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
明治元年戊辰ぼしんとし正月、徳川慶喜よしのぶの軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へのがれた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄ててひそかく
堺事件 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
有様ありようは、関東へ下って、慶喜よしのぶ公の麾下きかに加わって、一働きいたそうとの所存と見え申す」
乱世 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋しょうや本陣問屋といや仲間で徳川慶喜よしのぶ征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)