下顎したあご)” の例文
色の蒼白あおじろい、面長おもながな男である。下顎したあご後下方こうかほうへ引っ張っているように、口をいているので、その長い顔がほとんど二倍の長さに引き延ばされている。
カズイスチカ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
佐八は眠っているらしかったが、眼も薄くあいているし、口は下顎したあごが外れでもしたように、力なくがくりとあいていた。
その真白く剥き出した両眼と、ガックリいたひげだらけの下顎したあごに、云い知れぬ驚愕きょうがくと恐怖を凝固させたまま……。
白菊 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼等は顔を突き出して、下顎したあごから喉首のどくびのところを地面にべつたりと押しつけ、両方から同じ形に顔を並べ合つた。
みるみる下顎したあご全体を蔽い尽し、たちまち美しい笑顔の下半分を身震いするような化物の形相に変えてしまった。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
顴骨かんこつも出ていない。下顎したあごにも癖がない。その幅のある瓜実顔うりざねがおの両側に大きな耳朶みみたぶが少し位置高く開いている。
九代目団十郎の首 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
見上げると、下顎したあごから右の耳へかけて、刀の切先で撫であげられた古傷が、桃の割れ目のようにゆがんでいる。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
島の内船場の大檀那おおだんなの生ませた子ということになっているが、源之助の容貌を見ると、大阪の中村宗十郎とどうも似て、下顎したあごの少し張った美しい顔をしている。
役者の一生 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
柄にもない気のきいた台詞せりふである。下顎したあごのぎっくりと骨ばった、平べったい顔は酒で赤黒く火照ほてっていた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
とたんに、待望久しかった新鮮の空気が、どっとはいって来て、下顎したあごから顔面をなでて、流れだした。
地球要塞 (新字新仮名) / 海野十三(著)
この種族の婦人という者はその下顎したあごに三つの縦筋たてすじを描いて居る。それは黒く入墨いれずみをして居るものもあれば、入墨するだけの余裕のない者は植物性の黒い物で描いて居る。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
頬骨ほおぼねが秀でて、鉤鼻かぎばなは大きく、おとがいはこけて、下顎したあごは下り、白い大きな眼が突き出ている彼の顔の表情は、一般の事物に対する一種の頑固な無頓着さを示しているとはいえ
旅人が乗馬して海人あまに赤貝を買い取って見る拍子にその貝馬の下顎したあごい付き大いに困らす。
其子そのこの身に宿りしより常に殺気さつきべる夢のみ多く、或時は深山しんざんに迷ひ込みて数千すせんおほかみに囲まれ、一生懸命の勇をならして、その首領しゆりやうなる老狼らうらう引倒ひきたふし、上顎うはあご下顎したあごに手をかけて
母となる (新字旧仮名) / 福田英子(著)
下顎したあごの出た猿のようなこの老人は、どこへでもしゃあしゃあと押しだして往って、何人たれとでも顔馴染かおなじみになりました。国司こくしたちなどに往くと、十日も二十日はつかもそこにいることがありました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎したあごの輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄ようせいな精神美を付け加えているのは不思議だった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
寝台ねだいの上を見て、最初に目に付いたのは、病人の両手である。両手は着布団の上に出ていて、折々ぴくぴくと動いている。それから顔を見れば下顎したあごが締りなくたるんで、唇がかろく明いている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
下顎したあごは頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉のどから鼻へ抜ける。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
がくがくと下顎したあご鳴らす。——
第二邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
実際どのくらいたまらないかを表現しようとするかのように、下顎したあごを前方へせり出させ、それからまた云った。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
下顎したあごがガクガクと震えたかと思うと、精一杯の力で口が開いて、「ヒーッ」というような、一種異様の甲高かんだかい悲鳴が、湯殿の壁にこだまして、物凄く響き渡った。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
同僚の顔を見れば、皆ひどく疲れた容貌ようぼうをしている。大抵下顎したあごゆるんで垂れて、顔が心持長くなっているのである。室内の湿った空気が濃くなって、頭をすように感ぜられる。
あそび (新字新仮名) / 森鴎外(著)
下顎したあごから、逆さに紙燭の明滅をうけているくぼの多い顔が、土気つちけいろにさっと変った。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
殊に下顎したあごと上顎から二本ずつ曲った美しい牙が出て居る。で麝香じゃこうへそにあるというような説がありますけれどもそうではなく、彼香あれは陰部即ち睪丸こうがんのうしろにふくれ上って付いて居るです。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
ある時は深山しんざんに迷い込みて数千すせんおおかみかこまれ、一生懸命の勇をならして、その首領なる老狼ろうろうを引き倒し、上顎うわあご下顎したあごに手をかけて、口より身体までを両断せしに、の狼児は狼狽ろうばいしてことごと遁失にげう
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
眼が裂けるかと思うほど大きくみひらかれ、下顎したあごがさがって空洞のように口があいた。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)