“はゝ”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
71.4%
義母6.3%
繼母4.8%
亡母3.2%
継母3.2%
実母1.6%
老母1.6%
1.6%
嬭母1.6%
生母1.6%
阿母1.6%
養母1.6%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
それにくはへてをとこ周旋業しうせんげふも一かううまくはかないところから、一年後ねんごには夫婦別ふうふわかれとはなしがきまり、をとこはゝいもうととをれて関西くわんさいく。
吾妻橋 (新字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
所詮ながい間の空想を實現させたので、無論父にも義母はゝにも無斷だ。彼は此の突飛とつぴきはまる行動に、勝見の一をまごつかせて、年來ねんらい耐へに耐へた小欝憤せうゝぷんの幾分をらしたのである。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
しうととも折れ合ひませんのは勿論、私がゐては餘計者のやうに云はれますので、私は里へ戻つて參りましたが、ここでも繼母はゝとはうまく參りませんでした。
多摩川 (旧字旧仮名) / 林芙美子(著)
『男は淺猿あさましいものだ!』と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。——嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を讀んだ頃が思出された。亡母はゝの事が思出された。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
父も継母はゝも寺へお詣りに行つて居た留守の間に、私は小さな風呂敷包を一つ抱へて、干魚ひうをを積んで加賀の金石かないはまで行く小さな漁舟れふぶねの一隅に身を寄せて、また再び相見あひまみえようとの予想もなく
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
御尤ごもつともです、新聞には大抵、小米と申すのが、賤業せんげふおちいらぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母はゝから出た誤聞であります
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
今ま貴女のおほせられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃小米こよねと申す婦人を外妾めかけの如く致して居たので、雇主やとひぬし——其の芸妓屋げいしややに於ては非常なる恐慌きやうくわうきつし、又た婦人の実母はゝからは
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
篠田の寂しき台所の火鉢にりて、首打ち垂れたる兼吉かねきち老母はゝは、いまだ罪も定まらで牢獄に呻吟しんぎんする我が愛児の上をや気遣きづかふらん、折柄誰やらんおとなふ声に
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
老母はゝは狭き袖に涙ぬぐひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん——お珍らしい、くお入来いでだネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ——別にお変りもなくて——」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
貞之介ははゝを失つた直後に、伯父瑞仙の養子にせられて大坂に往つた。自筆の巻物に「善郷養て兄弟二人を祐ると云意を用て祐二と改む」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
官蔵のむすめはゝを失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女に譲つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
佐太夫とは歴々武士の落胤らくいん、道也とは名家釜師のなれの果て、其生立おひたちを聞けば彼も母一人此も母一人、彼は娼家に養はれ、此は遊蕩いうたうと呼ぶ嬭母はゝに養はる。
「俺の生母はゝのやうに早死わかじにしても憫然かあいさうだが、また比のおふくろのやうになツても氣の毒だ。」とムラムラと同情の念が湧いた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
(鶏の面輪は 阿母はゝの俤あつて 床しい)
独楽 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
もう羽織も欲しい季節だといふのに浴衣の重ね着をして控えてゐた傍らの雛妓おしやくを見たので、慌ててその子に渡すと、その養母はゝと二人が非常に丁寧に頭をさげて
熱海線私語 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)