“道路(だうろ)” の例文
此塲合に於ては此邊道路(だうろ)なりしならん、此所より此所の間には當さに道路有りしなるべきなり抔(など)と云ふを得れど、斯(かく)なる塲合は决して多からさるなり。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
未(ま)だ此他(このた)に、四十一年(ねん)の十月(ぐわつ)、七八九三ヶ日(にち)、お穴樣(あなさま)探檢(たんけん)に駒岡(こまをか)にと通(かよ)つた、其時(そのとき)に、道路(だうろ)に貝殼(かひがら)を敷(し)くのを見(み)て、何處(どこ)の貝塚(かひづか)から持出(もちだ)したのかと疑(うたが)つて居(ゐ)た。
次(つぎ)は瓢箪池(へうたんいけ)を埋(うづ)めた後(あと)の空地(あきち)から花屋敷(はなやしき)の囲(かこ)ひ外(そと)で、こゝには男娼(だんしやう)の姿(すがた)も見(み)られる。方角(はうがく)をかへて雷門(かみなりもん)の辺(へん)では神谷(かみや)バーの曲角(まがりかど)。広(ひろ)い道路(だうろ)を越(こ)して南千住行(みなみせんぢゆゆき)の電車停留場(でんしやていりうぢやう)の辺(あたり)。
吾妻橋 (新字旧仮名) / 永井荷風、永井壮吉(著)
大岡殿に向ひ否(いな)昌次郎夫婦を害(ころ)せし者傳吉の外には御座(ござ)なく其故は昌次郎女房(にようばう)は元傳吉が妻にて傳吉は只(たゞ)今の妻專と密通(みつつう)仕つり母諸共梅は離別(りべつ)せられ道路(だうろ)に餓死(がし)仕るべき有樣なるを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
道路(だうろ)が朱(しゆ)のやうに蜒(うね)つてゆく。
畑の祭 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
三十六年(ねん)の夏(なつ)、水谷氏(みづたにし)が内(うち)の望蜀生(ぼうしよくせい)と共(とも)に採集(さいしふ)に出(で)かけて、雪(ゆき)ヶ谷(や)の圓長寺(えんちやうじ)の裏(うら)の往還(わうくわん)を掘(ほ)つて居(ゐ)た。道路(だうろ)が遺跡(ゐせき)に當(あた)るので、それをコツ/\掘(ほ)りかへして居(ゐ)たのだ。
恨み遺恨(ゐこん)に思ふか悴(せがれ)惣内と里と不義(ぎ)致居る旨申掛離別(りべつ)致候故私しども親子道路(だうろ)に餓死(がし)も仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取(ひきとり)世話(せわ)致(いたし)呉(くれ)其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合(めあはせ)候然るに九助は是を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
つぐなうとあれば聖人(せいじん)の掟(おきて)にも有事なり然らば惡(あし)き御政事(ごせいじ)にてはなきと决せり又非學者(ひがくしや)の難(なん)じて曰(いは)く文王は有徳(うとく)な百姓町人の罪(つみ)死(し)けいに非(あらざ)るものを過料(くわれう)を出(だ)させて其金銀を以て道路(だうろ)にたゝずみ暑寒(しよかん)を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
皆(みな)道路(だうろ)に引出(ひきだ)したらしい。