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呂宋
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ルソン
ふりがな文庫
“
呂宋
(
ルソン
)” の例文
もしそれ日本人の
呂宋
(
ルソン
)
に住するもの三千人に過ぎたりという、また以て
如何
(
いか
)
に我が同胞が海外に膨脹しつつあるかを知るに足らん。
吉田松陰
(新字新仮名)
/
徳富蘇峰
(著)
毛剃
(
けぞり
)
九右衛門のような船頭と
胆
(
きも
)
に毛の生えた
上乗
(
うわのり
)
に差配をさせて、
呂宋
(
ルソン
)
、
媽港
(
マカオ
)
のあたりまで押し出させる一方、北条の運漕までも引受け
うすゆき抄
(新字新仮名)
/
久生十蘭
(著)
二、
呂宋
(
ルソン
)
行 昨夜からの雷雨がとおりすぎ、晴天をえらんで海峡を船出した。太陽は
支那
(
シナ
)
海に沈み、船は呂宋湾に停泊した。
南半球五万哩
(新字新仮名)
/
井上円了
(著)
このいさぎよさ、この果敢さは、裸一貫、かのフィリッピン
呂宋
(
ルソン
)
の島に押し渡った
呂宋
(
ルソン
)
助左衛門たちのつら魂から生まれいでたものであります。
日本の美
(新字新仮名)
/
中井正一
(著)
その半面は、豪壮な
彩具
(
えのぐ
)
と太い線で、朝鮮、明国、
呂宋
(
ルソン
)
、
暹羅
(
シャム
)
などにわたる
亜細亜
(
アジア
)
の沿海と大陸の地図が画いてあった。
新書太閤記:05 第五分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
然るに、その秀吉が、南洋、主として
呂宋
(
ルソン
)
に対し、経略の手を延ばしたのは、原田孫七郎の進言があったからである。
秀吉・家康二英雄の対南洋外交
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
今日台湾に行き
呂宋
(
ルソン
)
に渡ってかりにカヌカと名づけてよい地形に無数に出逢ったとしても、もはや我々はこれに対してそう命名する力はもたぬのだ。
地名の研究
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
甲州の原虎胤が信玄より改宗を勧められて
肯
(
がえ
)
んぜず相模に走りしことや、内藤如安、高山友祥が天主教を止めず、甘んじて
呂宋
(
ルソン
)
に趣きしことを論じて
神社合祀に関する意見
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
北
呂宋
(
ルソン
)
の
穀倉
(
こくそう
)
と言われる此の盆地を確保することは持久戦を続けるために絶対必要なことである。此処を失えば全員山中に追い込まれて餓死の他はない。
日の果て
(新字新仮名)
/
梅崎春生
(著)
後に至って、天正の頃
呂宋
(
ルソン
)
に往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。
雪たたき
(新字新仮名)
/
幸田露伴
(著)
一行はその地に於ける使命を果して、翌年七月二十一日
呂宋
(
ルソン
)
へ向けて出帆。九月マニラに上陸した。
イノチガケ:――ヨワン・シローテの殉教――
(新字旧仮名)
/
坂口安吾
(著)
呂宋
(
ルソン
)
とか、
高砂
(
たかさご
)
とかいうところ、或いはもっと、ずっとのして、
亜米利加
(
アメリカ
)
方面まで行くかも知れぬ
大菩薩峠:29 年魚市の巻
(新字新仮名)
/
中里介山
(著)
天竜寺船
(
てんりゅうじせん
)
や
御朱印船
(
ごしゅいんせん
)
のような貿易船も南の海を渡って、
呂宋
(
ルソン
)
(フィリッピン)、
渤泥
(
ブルニー
)
(ボルネオ)、
安南
(
アンナン
)
(仏印)、
暹羅
(
シャム
)
(泰)の国々や島々と、日本との間を
往
(
ゆ
)
き
来
(
き
)
した。
秘境の日輪旗
(新字新仮名)
/
蘭郁二郎
(著)
去る程に此寺の住持なりし
彼
(
か
)
の和尚は、もと高野山より出でたる真言の祈祷師にて御朱印船に乗りて
呂宋
(
ルソン
)
に渡り、
彼
(
かの
)
地にて切支丹の秘法を学び、日本に帰りて此の廃寺を起し
白くれない
(新字新仮名)
/
夢野久作
(著)
巾着切
(
きんちゃくき
)
りから、女白浪——長崎で役を勤めるようになってからは、
紅毛碧眼
(
こうもうへきがん
)
の
和蘭
(
オランダ
)
、
葡萄牙
(
ポルトガル
)
人、顔色の青白い背の高い唐人から、
呂宋
(
ルソン
)
人まで善悪正邪にかかわらず、
凡
(
およ
)
そありと
凡
(
あら
)
ゆる
雪之丞変化
(新字新仮名)
/
三上於菟吉
(著)
第一は明らかに南方支那系のもので、南蛮を始め、大まかに描いた
染附
(
そめつけ
)
の如きは明らかにその流れを示している。
呂宋
(
ルソン
)
と呼ばれるもの、
宋胡録
(
そんころく
)
として知られるものも、琉球にその影響を見せる。
現在の日本民窯
(新字新仮名)
/
柳宗悦
(著)
呂宋
(
ルソン
)
などという南方地方では、肥料もやらず蒔きっ放しで稲が年に二回も三回も
穫
(
と
)
れるという、稲は南方常夏の土地が原産だそうだ、我われはその米を唯一といってもいいほどの主食にしている
新潮記
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
石川左近将監自慢の、
呂宋
(
ルソン
)
古渡
(
こわた
)
りのお茶壺です。
丹下左膳:03 日光の巻
(新字新仮名)
/
林不忘
(著)
嘗
(
かつ
)
て
阿媽港
(
あまこう
)
、
呂宋
(
ルソン
)
を征せんと欲し、「図南の
鵬翼
(
ほうよく
)
何
(
いず
)
れの時にか奮わん、久しく待つ扶揺万里の風」と歌いたる独眼政宗も
吉田松陰
(新字新仮名)
/
徳富蘇峰
(著)
「
呂宋
(
ルソン
)
、
爪哇
(
ジャバ
)
、
婆羅納
(
ブルネオ
)
、
安南
(
アンナン
)
、
暹羅
(
シャム
)
あたりまでを総じて南蛮諸国と申し、また島々とよび、
満剌加
(
マラッカ
)
から先、
臥亜
(
ゴア
)
などを奥南蛮とも申しております」
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対
呂宋
(
ルソン
)
強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。
秀吉・家康二英雄の対南洋外交
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
梅雨が雷を送る
香港
(
ホンコン
)
の海、ばしょうの風が暑熱を吹き送る
呂宋
(
ルソン
)
の山、航路は熱帯の地をこえてはじめて涼風起こり、船は珊瑚礁の地に入って景色はまじりあう。
南半球五万哩
(新字新仮名)
/
井上円了
(著)
宇治の属する旅団は初め
呂宋
(
ルソン
)
北端のアパリにいた。比島作戦に於ける米軍上陸必至の地点である。
日の果て
(新字新仮名)
/
梅崎春生
(著)
豊臣秀吉は、
朝鮮征伐
(
ちょうせんせいばつ
)
をおわったら、
明
(
ミン
)
(支那)や
呂宋
(
ルソン
)
(フィリッピン)、天竺(インド)を攻め取って、帝都を支那にうつし、
加藤清正
(
かとうきよまさ
)
を天竺(インド)の太守にするつもりだった。
秘境の日輪旗
(新字新仮名)
/
蘭郁二郎
(著)
慶長十六年の六月、隠居して
惟新
(
いしん
)
といっていた島津義弘の命令で、はるばる
呂宋
(
ルソン
)
(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。
呂宋の壺
(新字新仮名)
/
久生十蘭
(著)
しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に
薨
(
こう
)
じたので、折角の対
呂宋
(
ルソン
)
強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。
秀吉・家康二英雄の対南洋外交
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
(
呂宋
(
ルソン
)
の海上を南東に向かい、ほのおのような大気を送って赤道の風が吹く。ひるさがりにわが皇国の遠いことを改めて思う。太陽はすでに北天の中央にある。)
南半球五万哩
(新字新仮名)
/
井上円了
(著)
平戸
(
ひらど
)
そのほかの海港と、
呂宋
(
ルソン
)
、安南、
暹羅
(
シャム
)
、
満剌加
(
マラッカ
)
、南支那一帯の諸港との往来は、年ごとに
頻繁
(
ひんぱん
)
を加えて来るし、それが国民一般の宗教に、軍事に、直接生活に
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
然
(
しか
)
り、彼らが
八幡
(
はちまん
)
の旗は、
翩々
(
へんぺん
)
として貿易風に
翻
(
ひるがえ
)
り、その軽舟は、黒潮の暖流に乗じて、台湾、
呂宋
(
ルソン
)
より、
安南
(
アンナン
)
に及び、さらにスマタラ海峡を突過して、
印度
(
インド
)
洋に迫らんとす。
吉田松陰
(新字新仮名)
/
徳富蘇峰
(著)
そうしてお紅のその裸身が、
呂宋
(
ルソン
)
織りの
垂布
(
タピー
)
を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
血ぬられた懐刀
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
彼の故郷
伊太利
(
イタリア
)
のはなし、海上の
里程
(
りてい
)
、北欧南欧の風物談、そのほか印度、安南、
呂宋
(
ルソン
)
、南支那などの旅行ばなしを、幾夜語らせて、熱心に聴いたか知れなかった。
新書太閤記:05 第五分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
で、宗湛はその父の遺業をうけて、今では
呂宋
(
ルソン
)
、
暹羅
(
シャム
)
、
柬蒲寨
(
カンボジヤ
)
の数ヵ所に、支店まで設けていた。
新書太閤記:07 第七分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
が、浴槽は
呂宋
(
ルソン
)
織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、
垂布
(
タピー
)
の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。
血ぬられた懐刀
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
堺は当時の
開港場
(
かいこうじょう
)
だったので、ものめずらしい
異国
(
いこく
)
の
色彩
(
しきさい
)
があふれていた。
唐
(
から
)
や、
呂宋
(
ルソン
)
や、
南蛮
(
なんばん
)
の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
堂上方
(
どうじょうがた
)
はいうに及ばず、諸侯のうちでも、識者とみずから任じおる面々でも、明国と問うても、どんな国がらか、また
暹羅
(
シャム
)
、
呂宋
(
ルソン
)
、
天竺
(
てんじく
)
などを訊ねても、どの辺か、どんな国か、皆目
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
信長公がお偉いの、太閤様がどうだのといっても、もし商人がなかったら、
聚楽
(
じゅらく
)
も桃山も、築けはしない。異国からいろんな物もはいりはしない。わけても
堺
(
さかい
)
商人はな、
南蛮
(
なんばん
)
、
呂宋
(
ルソン
)
、福州、
厦門
(
アモイ
)
。
宮本武蔵:08 円明の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに
呂宋
(
ルソン
)
より
海南
(
ハイナン
)
にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“呂宋(ルソン島)”の解説
ルソン島(ルソンとう、呂宋島、フィリピン語:Luzon)は、フィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島。面積は約10万4688 km
2
、人口は約4622万人で、フィリピンの総面積の35%、総人口の52%を占める。世界で17番目に大きな島で、世界で5番目に人口が多い島でもある。首都マニラやフィリピンで最も人口が多いケソン、及びそれらを包括する首都圏メトロ・マニラが同島に所在しており、フィリピンの政治・経済で特に重要な位置を占めている。
(出典:Wikipedia)
呂
常用漢字
中学
部首:⼝
7画
宋
漢検準1級
部首:⼧
7画
“呂宋”で始まる語句
呂宋兵衛
呂宋助左衛門
呂宋刀
呂宋文字