老耄ろうもう)” の例文
老耄ろうもうしていた。日が当ると茫漠ぼうばくとした影がたいら地面じべたに落ちるけれど曇っているので鼠色の幕を垂れたような空に、濃く浮き出ていた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
東片町時代には大分老耄ろうもうして居睡いねむりばかりしていたが、この婆さん猫が時々二葉亭の膝へ這上はいあがって甘垂あまったれ声をして倦怠けったるそうにじゃれていた。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、老耄ろうもうの一つ手前に達した年寄りまで、それぞれ一生の逸話アネクドートを拾った。
(新字新仮名) / 宮本百合子(著)
………自分がいかに老耄ろうもうし、血のめぐりが悪くなっているからと云って、あんなにまでされて気が付かずにいられようか。………
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ドイツは、その老耄ろうもうなまた幼稚な芸術を、解き放された畜生ともったいぶった気取りやの小娘との芸術を、よろこび楽しんでいた。
そして疾病しっぺい老耄ろうもうとはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
……人は老耄ろうもうした老人で、一人は十一二の子供である。……それが暢気そうに歩いて行くとは! 大胆と云えば大胆とも云え、無考えとも云える。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
槍などは下手へたでも構わん。むかし藩中に起った異聞奇譚いぶんきだんを、老耄ろうもうせずに覚えていてくれればいいのである。だまって聞いていると話が横道へそれそうだ。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
たとえ老耄ろうもうされたとしても、僅かな地境の争いなどを老中に訴え出るほど涌谷どのは無分別な人ではございません。
先生より寧ろ遺憾は深いと思われる祖母は、老耄ろうもうの上、少し気がおかしくなり、誰に向っても「噂を振り撒いたのはおまえだろう」と喰ってかゝった。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
これらの不平はみんな、つまり自分がだんだん老耄ろうもうして来て頭が古くなり、感激性が麻痺したせいかもしれない。
二科展院展急行瞥見 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
それがし今年今月今日切腹して相果あいはてそろ事いかにも唐突とうとついたりにて、弥五右衛門老耄ろうもうしたるか、乱心したるかと申候者も可有之これあるべくそうらえども、決して左様の事には無之これなくそろ
祖母は晩年には老耄ろうもうして、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
その中泉という老耄ろうもうの画伯と、それから中泉のアトリエに通っている若い研究生たち、また草田の家に出入りしている有象無象うぞうむぞう、寄ってたかって夫人の画を褒めちぎって
水仙 (新字新仮名) / 太宰治(著)
祖母も病床に臥したまま動かれず、老耄ろうもうして白痴のような矛盾むじゅんしたことを申しますし、一家は二人の看護で秩序を失っていました。それから二十日間姉は苦み続けました。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
人違とは如何いかなことでも! 五年や七年会はんでもわしだそれほど老耄ろうもうはせんのだ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
「おやまあ嫌だ、あなたが着ておいでになったのに——おじいさん老耄ろうもうなさった。」
孫の成長をたった一つの心楽しみに、日雇ひやといなどをしてようようと暮していたが、そのばあさんがやがて老耄ろうもうをして、いつでも手を打って一つ歌を歌っているのを、面白がって私たちは聴きにった。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
なに十両私に下さるとは何たる慈悲深なさけぶけいお方ですかねえ、亥太郎は交際つきあいが広いから牢へ差入れ物をしてくれる人は幾らもありますが、老耄ろうもうしている親爺おやじの所へ見舞に来て下さる方はありません
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
「わしは近頃は老耄ろうもうの上に念仏一方で、久しく聖教しょうぎょうを見ないが」
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その執拗さで却って二人ながらに迫っている老耄ろうもうを思わせるばかりに株がいい、土地がいいと諍っている。
猫車 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
酸敗し老耄ろうもうした落伍らくご者ども、王党の若小な痴人ども、残忍と憎悪ぞうおとに満ちた忌むべき宣伝者ども、すべてそういう奴らが僕の行為を奪って、それを汚してしまうだろう。
時は昼夜ちゅうやてず流れる。過去のない時代はない。——諸君誤解してはなりません。吾人は無論過去を有している。しかしその過去は老耄ろうもうした過去か、幼稚な過去である。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その後また幾年も経過して、烈しい世の中の動きにつれて、住所も安定しませんので、いよいよ老耄ろうもうした私は、焼け残った本を少しずつ持って、あちこち流転を続けています。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
人世の老耄ろうもう者、精力の消費者の食餌療法をするような家の職業には堪えられなかった。
家霊 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如璋の揮毫きごうした東坡とうばの絶句が懸けられるので、わたくしは老耄ろうもうした今日に至ってもなおく左の二十八字を暗記している。
十九の秋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
虫の啼く、粗壁あらかべの出た、今一軒の家には老夫婦が住んでいた。じじい老耄ろうもうして、ばばあは頭が真白であった。一人の息子が、町の時計屋に奉公していて、毎月、少しばかりの金を送って寄来よこした。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
「寅寿はいまはねも手足ももぎとられたかたちだが、なにこれで朽ち果てるほど老耄ろうもうはしておらぬ、見ておいやれ、いまに思いがけぬところから……思いがけぬところから、な、まあ見ておいやれじゃ、はっははは」
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
けれども、そうは出来ない彼は、また自分の心がそれを望んでいるのだとは気づかない彼は、老耄ろうもうが、もう来たと思った。が、それを拒むほど、彼は若くていたくもなかったのである。
禰宜様宮田 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
規矩男から彼の父親の晩年の老耄ろうもうさ加減を聞いて知っているかの女は、夫人が言訳しているなと思った。年齢に大差ある結婚を、夫人がまだ身にみて飽き足らず思っているのを感じた。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
既に老耄ろうもうしているじじいは、この時ばかり気が確かであった。而して断言した。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
あかる煖炉だんろそばに坐りかける老耄ろうもうした「月日」は
最後にいまわたくしの心に残るのは、老耄ろうもうして十二三年も以前に見失った小猫の幻を追ったり、偶然にしろ、その亡躯なきがらは嘗ての良人の住む岸の川へ漂って行ったという、そのことでした。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
物哀れな老耄ろうもうした「月日」が
五官の老耄ろうもうした中で、感覚が一番確かだつた。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)