咸臨丸かんりんまる)” の例文
ついで陸から祝砲を打つとうことになって、彼方あちらから打てば咸臨丸かんりんまるから応砲せねばならぬと、この事について一奇談がある。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
サンフランシスコについた条約じょうやくとりかわしの使節しせつたちが、ワシントンへいくのとはんたいに、諭吉ゆきちたち咸臨丸かんりんまるの一こうは、日本にっぽんへひきかえすことになり
予はかつて長崎に在りし時、幕府の軍艦にて咸臨丸かんりんまるは長崎滞泊中は該艦に乗組の医官無くして、予は臨時傭として病者及び衛生上に関する事を取りたる事あり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
その年うるう五月五日、咸臨丸かんりんまる無事ぶじ帰朝きちょうし、かん浦賀うらがたっするや、予が家の老僕ろうぼくむかいきたりし時、先生老僕ろうぼくに向い、吾輩わがはい留守中るすちゅう江戸において何か珍事ちんじはなきやと。
当時とうじ外国人にもおのずから種々の説をとなえたるものなきにあらずというその次第しだいは、たとえば幕府にて始めに使節しせつを米国につかわしたるとき、彼の軍艦咸臨丸かんりんまる便乗ぴんじょうしたるが
日本最初の使節を乗せた咸臨丸かんりんまるがアメリカへ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府がオランダ政府からい入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
幕府の咸臨丸かんりんまるが、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎かつりんたろうを指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を
ついこの間まで汽船を見たこともなかった日本の汽走軍艦咸臨丸かんりんまるである。
咸臨丸その他 (新字新仮名) / 服部之総(著)
銀貨狼藉さてそれから船が出てずっと北の方に乗出のりだした。その咸臨丸かんりんまると云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭をくと云うことは出来ない。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
咸臨丸かんりんまるは、万延まんえんがん(一八六〇)ねんがつ十九にち使節しせつたちをのせたふねよりも一足ひとあしさきに浦賀うらが船出ふなでしました。
先生咸臨丸かんりんまる米行べいこうきょありと聞て、予が親戚しんせき医官いかん桂川氏かつらがわしかいしてその随行ずいこうたらんことを求められしに、予はこれさいわいの事なりと思い、ただちにこれをがえんじ、一けんきゅうのごとし。
駿州すんしゅう清見寺内せいけんじない石碑せきひあり、この碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸かんりんまるが、清水港しみずみなとたれたるときに戦没せんぼつしたる春山弁造はるやまべんぞう以下脱走士のめに建てたるものにして
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
れいの通りおく一間ひとまにて先生及び夫人と鼎坐ていざし、寒暄かんけん挨拶あいさつおわりて先生先ず口を開き、このあいだ、十六歳の時咸臨丸かんりんまるにて御供おともしたる人きたりて夕方まではなしましたと、夫人にむかわれ
この使節しせつたちは、アメリカからむかえにきたふね、ポーハタンごうにのって太平洋たいへいようをわたるわけですが、それといっしょに、幕府ばくふは、日本にっぽん軍艦ぐんかん咸臨丸かんりんまるをアメリカへいかせることにしました。
義勇兵所で私が二度目に亜米利加アメリカいったとき、甲比丹カピテンブルックに再会して八年目にきいた話がある。それは最初日本の咸臨丸かんりんまるが亜米利加についたとき、桑港サンフランシスコで中々議論があった。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)