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田中早苗
青蠅(新字新仮名)
読書目安時間:約7分
男は、死んだ女のそばに突立って、平然とその屍体を見まもった。 彼は眼を細めにあけて、大理石の石板に横えられた女の白い体と、胸の只中をナイフで無残に刳られた赤い創口とを見た。 屍体は …
空家(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
錠をこじあけて屋内へ入ると、彼はその扉を要心ぶかく締めきって、じっと耳を澄ました。 この家が空家であることは前から知っていたが、今入ってみると、寂然していてカタとの物音もないのと、 …
或る精神異常者(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
彼は意地悪でもなく、といって、残忍酷薄な男でもなかった。ただ非常にかわった道楽をもっていたというだけのことだ。しかしその道楽もたいていやりつくしてしまって、いまでは、それにもなんら …
暗中の接吻(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
「御免なさい……御免なさい……」 女は膝まずいて哀願していた。男は少しやさしい口調になって、 「起ちなさい、もう泣かんでもいい。おれにも欠点があったんだからな」 「いいえ、貴郎、飛 …
犬舎(新字新仮名)
読書目安時間:約11分
十一時が鳴ると、アルトヴェル氏は麦酒の最後の一杯をぐっと飲み乾し、ひろげていた新聞をたたんで、うんと一つ伸びをやって、欠伸をして、それからゆったりと起ちあがった。 吊り飾燈の明るい …
幻想(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
乞食は、その日、辻馬車の扉を開け閉てして貰いためた僅かの小銭を衣嚢の底でしっかと握り、寒さで青色になって、首をちぢめて、身を切るような寒風を避ける場所を探しながら、急ぎ足の人々とと …
乞食(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
夜は刻々に暗くなってゆく。 一人の老ぼれた乞食が、道ばたの溝のところに立ちどまって、この一夜を野宿すべき恰好な場所を物色している。 彼はやがて、一枚のあんぺらにくるまって身を横える …
誤診(新字新仮名)
読書目安時間:約11分
「先生」 とその男はいった。 「僕に結核があるかどうか、御診察の上で、包みかくしのないところを仰しゃって下さい。大丈夫ですよ、僕は確かりしています。どんな診断を聞かされたって平気な …
孤独(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
その年老った事務員は、一日の単調な仕事に疲れて役所を出ると、不意に蔽かぶさってしだいに深くなってゆく、あの取止めもない哀愁に囚われた。そして失える希望と仇に過ごした光陰を歎く旧い悩 …
自責(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
扉が開いたけれど、私は廊下に立ちどまってもじもじしていると、 「此室でございます」 私を迎えに来て其家まで案内してくれた婆さんが、こういって再び促したので、私は思いきって入って行っ …
十時五十分の急行(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
「今日お発ちだそうですね、ムッシュウ」 と跛の男が私に問いかけた。 「ああ、月曜の朝にマルセイユへついていないと、都合がわるいからね。十時五十分の急行でリオン停車場から発とうと思っ …
情状酌量(新字新仮名)
読書目安時間:約13分
フランソアズは倅が捕縛されたということを新聞で読んでぎょっとした。 けれど、初めのうちはとても真実と思えなかった。それはあまりに途方もない出来事であったから。 可愛い倅はごく内気な …
誰?(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
その日、私はかなり遅くまで仕事をやった。そしてやっと書物机から眼をあけたときは、もう黄昏の仄暗さが書斎に迫ってきていた。私はそのままで数分間、じっとしていた。非常に根気をつめた仕事 …
小さきもの(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
「裁縫は出来るの」 「少しばかり致します」 「煮焚も出来るね」 「はい、マダム」 「毎日、朝六時からここへ来て、家の雑用と食事の仕度をしてもらいます。給金は葡萄酒代も入れて一ト月四 …
父(新字新仮名)
読書目安時間:約11分
最後の一耘の土を墓穴へかぶせてしまって、お終いの挨拶がすむと、父子はゆったりした歩調で家の方へ帰って行ったが、その一歩一歩がひどく大儀そうであった。二人とも無言で歩いていた。長い混 …
生さぬ児(新字新仮名)
読書目安時間:約12分
男は腰掛に腰を据え卓子に片肱ついて、肉汁をさも不味そうに、一匙ずつのっそりのっそりと口へはこんでいた。 女房は炉のそばに突立って、薪架の上に紅く燃えてパチパチ爆ねる細薪をば、木履の …
ピストルの蠱惑(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
一時間前までおれは囚人だった。しかも大変な囚人だ。外聞だの刑期だのという問題ではなく、すんでのことに、この首が飛ぶところであったのだ。 斬首台を夢に見て魘されたことも幾度だかしれな …
フェリシテ(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
彼女はフェリシテという名前だった。貧しい女で、美人でもなく、若さももう失われていた。 夕方、方々の工場の退け時になると、彼女は街へ出て、堅気女らしい風でそぞろ歩きをした。ときどき微 …
二人の母親(新字新仮名)
読書目安時間:約8分
「坊ちゃん、いくつ?」 通りがかりの老紳士が問いかけると、 「四つ」 砂いじりに夢中になっていた男の子が答えた。 「名前は何ていうの」 「ジャン」 「苗字は?」 「ジャン」 「それ …
ふみたば(新字新仮名)
読書目安時間:約8分
創作家のランジェは、黙って、大きな卓机から一束の手紙を取りだした。その文束は真紅なリボンで結えてあった。 「あなたは、これが要るんですか。どうしても取りかえそうと云うんですか」 彼 …
碧眼(新字新仮名)
読書目安時間:約11分
女は寝台のそばに立って、しょんぼりと考えこんでいた。病室用のだぶだぶな被布にくるまっているせいでもあろうが、何だか実際よりも痩せ細って見えた。 あの愛くるしい顔もすっかり衰えてしま …
ペルゴレーズ街の殺人事件(新字新仮名)
読書目安時間:約12分
列車は夜闇の中をひた走りに走っていた。 私の車室にいた三人の乗客——老紳士と、若い男と、ごく若い女——は、誰も眠らなかった。若い女がときどき若い男に何か話しかけると、男は身振りで答 …
麻酔剤(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
「わたしなんか、麻酔剤をかけなければならぬような手術をうけるとしたら、知らないドクトルの手にはかかりたくありませんね」 と美くしいマダム・シャリニがいいだした。 「そんなときは、や …
見開いた眼(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
寝床に仰向きになっていたその死人は、実に物凄い形相だった。 体はもう硬直していたが、頭髪は逆立ち、口を歪め、唇は上反って、両手で喉を掻きむしる恰好をしていた。そして小さなランプが一 …
麦畑(新字新仮名)
読書目安時間:約9分
ジャン・マデックは、緩くり調子をとってさっくさっくと鎌を打ちこんでゆくと、麦穂は末端をふるわせ、さらさらと絹ずれのような音を立てつつ素直に伏るのであった。 ジャンは歩調を按排しなが …
無駄骨(新字新仮名)
読書目安時間:約11分
そのジャン・ゴオテという男は、見たところ、ちっとも危険な犯罪者らしくなかった。 年齢はちょっと見当がつかないが、弱そうな小柄の青年で、何だか子供の時分から病身で悩んで来たという風で …
ラ・ベル・フィユ号の奇妙な航海(新字新仮名)
読書目安時間:約17分
「好い船だろう、え?」 だしぬけに声をかけられて、ガルールはふと顔をあげた。彼は波止場に腰をかけて両脚をぶら垂げたまま、じっと考えこんでいたのであった。 で、顔をあげると、一人の見 …
老嬢と猫(新字新仮名)
読書目安時間:約10分
その老嬢は毎朝、町の時計が六時を打つと家を出かけた。 それは最初の弥撒を聴くために、近所の教会堂へ出かけるのだが、彼女はまず注意ぶかく戸じまりをしてから、どの頁も手垢によごれて隅が …