陰翳いんえい)” の例文
いずれも散文精神の伴奏として陰翳いんえいのような役割をしている先生の詩情が、詩の形をとって真正面から打ち出されたものがない代りに
「珊瑚集」解説 (新字新仮名) / 佐藤春夫(著)
それはあらゆる楽しい希望を含み、しかも少しも性的な陰翳いんえいを持っていない無垢むくな歓楽の頂上かもしれない。だが、あまりに清教徒的だ。
第二の接吻 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
平安朝史の上では、宮廷の秘めごとは源氏物語の陰翳いんえいのうちにささやかれ、庶民の中の花柳紅燈かりゅうこうとうは、江口の里が、代表している。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
煉瓦塀れんがべいや小さな溝川みぞがわかえでの樹などが落着いた陰翳いんえいをもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)
蚊帳の青味と隈の濃いその灯かげの陰翳いんえいとで、美しい小枝の小鼻は、白い枕被いの上で嶮しくそげて見えるのであった。
播州平野 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
きわめて僅かな時間に、眼のまわりにかさがあらわれ、それが顔つきぜんたいに深い陰翳いんえいを与えた。眸子ひとみは大きくなり、きびしい光を帯びて耀かがやいた。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
翻訳文そのものが文学になる先に、原作の語学的理会と、その国語の個性的な陰翳いんえいを没却するものであってはならない。
詩語としての日本語 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
空にはながらく動かないでいるおおきな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳いんえいを持っていた。
蒼穹 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
日の夕となりて、模糊として力なき月光の全都をおほひ、隨處に際立ちたる陰翳いんえいを生ぜしとき、われはいよ/\ヱネチアの眞味を領略することを得たり。
この世は男子のみですでに陰翳いんえいを投げおるものが、更に女子に助けられて、一層暗黒ならしめらるる事となる。
婦人問題解決の急務 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
何という崇高さだったろう! 下の方は氷河の陰翳いんえいの如く、上に行くにつれ、暗いインディゴオから曇った乳白に至る迄の微妙な色彩変化のあらゆる段階を見せている。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
東塔は周知のごとく三重の塔ではあるが、各層に裳層もこしがついているので六重の塔のようにみえる。そしてこの裳層のひろがりが塔に音調と陰翳いんえいを与えている。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そうして、ふと触れる路傍の小石の一つ一つに、その杖は、忘れられた過去の日の、思いがけない音色と陰翳いんえいとを捉えるのだ。杖の音ははねかえって、八方にこだまする。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
庸三はすれすれに歩いている葉子をなじった。一抹いちまつ陰翳いんえいをたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
俯向うつむいた前髮は重さうで、おびえて剃らなかつたといふ、半元服の公卿眉くげまゆが、眞珠色に見える豊かな頬に影を落して、この女の悲劇的な陰翳いんえいを、ひときは深く見せるのです。
その時の、魂の上に落ちた陰翳いんえいを私は何時までも拭ふことが出来ない。私は家のものに隠れて手拭につゝんだ小糠こぬかで顔をこすり出した。下女の美顔水を盗んで顔にすりこんだ。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
淫猥いんわいとも云えば云えるような陰翳いんえいになって顔や襟頸えりくびや手頸などを隈取くまどっているのであった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
陰翳いんえいは彼があばら
第二邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
しかも古来たびたび、匈奴きょうどの南下に侵された歴史の古い痍跡きずあとは、今とて、どこかここの繁華に哀しい陰翳いんえいを消していない。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
順一の顔には時々、けわしい陰翳いんえいえぐられていたし、嫂の高子の顔は思いあまってぼううずくようなものが感じられた。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
日本語が平俗だと考えている以上に、外国語の持っている様な陰翳いんえいを自在に浮べる事の出来ないのをにくんでいるのであろう。だから何のための詩語か。
詩語としての日本語 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
鼻の下に柔かいぼんやり黒い陰翳いんえいがある丸顔には、青年らしいものと少年ぽいものと混りあってのこっている。
雑沓 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
たゞ、青山の葬場に集まった人だけは、活々いきいきとした周囲の中に、しめっぽい静かな陰翳いんえいを、投げているのだった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私は昨日土堤どての土に寢轉びながら何時間も空を見てゐた。日に照らされた雜木山の上には動かない巨きな雲があつた。それは底の方に藤紫色の陰翳いんえいを持つてゐた。
闇への書 (旧字旧仮名) / 梶井基次郎(著)
講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麓で、寺としての陰翳いんえいに乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに華奢きゃしゃであり、舎利殿は整備されすぎて古典の重味に欠ける。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
早い話が、映画を見ても、アメリカのものと、佛蘭西フランス独逸ドイツのものとは、陰翳いんえいや、色調の工合が違っている。演技とか脚色とかは別にして、写真面だけで、何処かに国民性の差異が出ている。
陰翳礼讃 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
あらゆる感覚器官が一時に緊張し、或る超絶的なものが精神に宿ったことを、私は感じた。どんな錯雑した論理の委曲も、どんな微妙な心理の陰翳いんえいも、今は見遁みのがすことがあるまいと思われた。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
お仙の顏は、朗らかで何んの陰翳いんえいもありません。
最も出来合いでないものの感じ得る陰翳いんえい——それによって明暗が益〻生彩を放つところの、動く生命力の発露として、苦痛をも亦愛し得るだけ生活的です。
優雅と繊細を極めた平安朝芸術にくるまれた貴族生活の“陰翳いんえい”が自然に宿すかびの一つというほかはない。
あゝいうお話はなるべく陰翳いんえいの残らないように、ハッキリと片を付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人ウィットネスになって下さるでしょうねえ。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それを発言された折のあらゆる表情陰翳いんえいを如実に想像する宗教的想像力である。僕は太子時代の歴史をかきながら、かかる想像力のいかに稀有けう至難であるかを痛感した。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
義母はまだ看護のつづきのように、しみじみと死体に指を触れていた。それは彼にとって知りすぎている体だった。だが硬直した皮膚や筋肉に今はじめて見る陰翳いんえいがあった。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
これは正成の持ち前というしかない陰翳いんえいだろうか。妻子の消息などにも、ただうなずいてみせただけで。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一見極めて矛盾した様な性格らしく、それだけに政治家としては、陰翳いんえいが多い訳だ。
四条畷の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
陰翳いんえいとなって、下唇の引緊った蒼白い横顔にはびこっているのであった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
暮れ迫るままに深まる物のあいろは、陰翳いんえいの美を見るにはよく、現実を見るには都合がわるい。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)