対馬つしま)” の例文
旧字:對馬
そうしてこの遊びもまた弘く行われていたと見えて、対馬つしまの島の浅藻あざもという村でも、やはりタンポポを「酒買い坊」といっている。
筑前ちくぜん筑後ちくご肥前ひぜん肥後ひご豊前ぶぜん豊後ぶんご日向ひゅうが大隅おおすみ薩摩さつまの九ヵ国。それに壱岐いき対馬つしまが加わります。昔は「筑紫ちくししま」と呼びました。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
これより内地における迷信を述べる順序として、西南の離島たる壱岐いき対馬つしま五島より始め、次第に東北に及ぼしたいと思う。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
九州や壱岐いき対馬つしまの漁民まで、日本国中が一致団結して、元軍十万を、博多はかたの海に皆殺しにしてからこの方、日本人は海をおそれなくなった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
かごからそとすときは、あしになわをつけておかないと、そらんで、げてゆきます。これは対馬つしまからきましたので、野生やせいとりでございます。
金持ちと鶏 (新字新仮名) / 小川未明(著)
それは藩名をイロハ順に編別したもので、イの一番は厳原(イツハラ)藩、対馬つしま十万石の宗従四位そうじゅしいむろん徳川時代に厳原などという藩名はなかった。
武鑑譜 (新字新仮名) / 服部之総(著)
比較的新しい地質時代まで日本が対馬つしまのへんを通して朝鮮と陸続きになっていたことは象やさいの化石などからも証明されるようであるが、それと連関して
日本人の自然観 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
スワこそ、バッテイラで乗込んで来るぞ、うかうかしていた日には、元寇げんこうに於ける壱岐いき対馬つしま憂目うきめをこの房州が受けなければならぬ。用心のこと、用心のこと。
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
新羅使の一行が、対馬つしま浅茅浦あさじのうら碇泊ていはくした時、順風を得ずして五日間逗留とうりゅうした。諸人の中でなげいて作歌した三首中の一つである。浅茅浦は今俗に大口浦といっている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
閣老安藤対馬つしまを要撃してきずつけた坂下門事件、薩藩内部の同士討であるが、京都に、武装蜂起を企てた伏見寺田屋事件、中山忠光の大和義挙、澤宣嘉さはのぶよし、平野国臣らの生野義挙
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
(ただし大宰、壱岐いき対馬つしまの地方官は例外として在京官吏に等しき禄をももらう。)
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
大艦を打造うちつくり、船軍を習練し、東北にしては蝦夷えぞ唐太からふと、西南にしては流叫りゅうきゅう対馬つしま憧々しょうしょうと往来し、虚日あることなく、通漕捕鯨し、以て操舟を習い海勢をさとり、しかる後往きて朝鮮
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
しかしそれに対して日本はつねに断乎だんこたる拒絶の態度を示していた、そこで文永十一年に元軍は壱岐いき対馬つしまへ来寇し実力を見せてから又しても杜世忠ら五人の使者をもって臣従を迫った
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
対馬つしまの近い北九州では、日本海々戦の砲声が、遠雷のように、聞えた。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
船涼し左右そうに迎ふる対馬つしま壱岐いき
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
対馬つしまどのか、なんじゃ」
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
対馬つしまが見ゆる
雨情民謡百篇 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
対馬つしまでは子供が両手の小指を以て目のはたを張り、こわい顔をすることをタンゴウスルといい、又はガンゴメともいうそうである。
おばけの声 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
祖父の高坂対馬つしまに伴われ、没落の甲州をあとにして、摂州芥川あくたがわに隠れて閑居しているところへ、祖父の知人であった宮本武蔵が訪ねて来て、夜もすがら語り明かした時に
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
前者の例は生麦なまむぎ薩摩さつまの武士がイギリス人を斬った、いわゆる生麦事件に代表されるものであり、後者はたとえば対馬つしまが占領されたとき最後まで反抗した対馬の住民であった。
黒船来航 (新字新仮名) / 服部之総(著)
百船ももふねつる対馬つしま浅茅山あさぢやま時雨しぐれあめにもみだひにけり 〔巻十五・三六九七〕 新羅使
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
詐欺師や香具師やしの品玉やテクニックには『永代蔵』におおかみの黒焼や閻魔鳥えんまちょう便覧坊べらぼうがあり、対馬つしま行の煙草の話では不正な輸出商の奸策かんさくを喝破しているなど現代と比べてもなかなか面白い。
西鶴と科学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
足利時代の当初から壱岐いき対馬つしま、九州の北部を根拠として、支那や朝鮮の沿海で、半貿易半海賊の活躍を始めたのであるが、倭寇わこうと呼ばれる頃には、かなり大がかりなものとなつたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
露国の軍艦が対馬つしまに来たりて同島を占領せんと企て、時の政府は英国の力を借りてようやくその企てを拒みたることは、今なお世人の記憶するところにして、当時英国公使として日本に駐在し
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
対馬つしまっ」
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
九州の島々、壱岐いき対馬つしま天草あまくさなどではケギという。ケギのケは不断着のフダンも同じで、晴着のハレに対する古い言葉である。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
この歌の次の、「対馬つしま下雲したぐもあらなふかむにたなびく雲を見つつ偲ばも」(巻十四・三五一六)は、男の歌らしいから、防人さきもりの歌ででもあって、前のは防人の妻ででもあろうか。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
この日を花正月というのは関東の各地、対馬つしまでこれをまたモドリ正月カエリ正月ともいうのは、立返ってもう一度の正月ということであろう。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
島には大体に古い仕来しきたりが残るものと見えて、対馬つしまでも種子島たねがしまでも、この最初の足入れの日には、嫁はふだん着のままで来るという話が多い。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
人形がおままごとに参加したのは、遠い対馬つしま阿連あれ村の例はあるが、一般にはずっと新しいことで、今ある姉様遊あねさまあそびに伴うてひろまったものらしい。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そういう中でも特色のあるのは対馬つしま阿連あれ村などに行なわれているという盆の十四日のボンドコであって、トコというのがやはり釜壇かまだんのことであった。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
伊豆の島には対馬つしま五島ごとうなどのように、鹿は住んでいなかったから是だけは無理な附け方であるかも知れぬ。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩よめたたき棒、九州の各地でハラメン棒、対馬つしまでコッパラなどといったのも、すべてこの正月の祝い棒の名で、集めているときりがないが
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
阿波でも吉野川の上流ではシロイ、隠岐の島にもまたシロエの名があり、対馬つしまでもこの草の葉をオシロイグサというを見れば、シレイは必ずしも元の音とも言えない。
たとえば対馬つしま国佐須村大字久根浜、同大字久根田舎の類である。同じ島豊崎村に大字浜久須及び大字久須、後者は『津島記事』によれば俗にあるいは田舎久須と称すとある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
有斐斎剳記ゆうひさいさつき』に対馬つしま某という物産学者、薬草を採りに比叡山ひえいざんの奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまたじ登って遊んでいるのを見た。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
前年私は対馬つしまの西北海岸づたいに、この盛んな磯遊びを見てあるいたが、女や子供が幾十組ともなく、手に手に重箱を下げてよい場所を見つけてあるく光景は、なごやかなものであった。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
その一つは対馬つしまの久根村でネブノキ流しというもの、これは合歓木の枝を折って海に流し、年中睡くないようにというまじないとするらしく婦人がもっぱらこれにたずさわるというが(島誌)
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
対馬つしま佐須村大字久根田舎くねいなか字矢立山
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
パッパ 対馬つしま豊崎村