寂莫せきばく)” の例文
聞く者の耳も妙に変っている。この「オーイ」「オーイ」の応答が杜絶とだえると、自分の心臓の鼓動が高く響くだけが気になる寂莫せきばくである。
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
その白さは、唯の白さでなく、寂莫せきばくとした底の知れないような白さだった。見ているうちに、全身ふるえて来るような白さだった。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
かつてはひとびとが大ぜい集まり盛観であったのに、今は人影もなく寂莫せきばくとしてしまった場所を歩くよりも深いわびしさを人の心に感じさせるものはない。
は暗く、ただ焚火の光の空を焦がすのみ。雨は相変らずショボショボと降り、風は雑草を揺がして泣くように吹く、人里離れし山巓さんてん寂莫せきばくはまた格別である。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫せきばくあふれていた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかし概していえばわたしの住んでいるところは大草原のうえのように寂莫せきばくとしている。それはニューイングランドであるにおとらずアジアでありアフリカである。
いておいで、この中だ。」と低声こごえでいった滝太郎の声も、四辺あたり寂莫せきばくに包まれて、異様に聞える。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
出家後の天皇の消息をうかがうにつけても、私はそこに、至尊にして且つ一代の宗教芸術家とも申し上ぐべき御方の、残夢寂莫せきばくたる晩年を思わないわけにゆかない。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
少し今、ガタという音で始めて気がついたが、いよいよこりゃ三尺地の下に埋められたと見えるテ。静かだッて淋しいッてまるで娑婆しゃばでいう寂莫せきばくだの蕭森しょうしんだのとは違ってるよ。
(新字新仮名) / 正岡子規(著)
雪が積って月光の下に広い経帷子きょうかたびらのように白く横たわって寂莫せきばくたるサルペートリエールの一郭、そのすごい大通りと黒いにれの並み木の長い列とを所々赤く照らしてる街灯の光
この村で一番と言はれて居る豪家N家の老主人は、年をとつて、ひどく人生の寂莫せきばくを感じ出した。普通人にとつてかういふ時に最も必要なものは、老いと若きとを問はず異性であつた。
信祝のぶときは、蒔絵まきえした黒漆くろうるしの大火鉢へかけた金網の上へ、背中をまろめながら、唇をゆがめたり、眼を閉じたり——それからせきをしたり——咳は、寂莫せきばくとした小書院こしょいん一杯に反響して、けたたましかった。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
官兵衛の使いした十一月の末から十二月に通じて、三木の城は、実に、寂莫せきばくとしたものをひそめて、沈黙していた。もう寄手に撃つべき鉄砲のたますらないことは読めていた。けれど秀吉も今は
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここで車を返して、私は彼女たちの住居すまいの方へ足を向けました。もう、そう遠い道ではありません。期していたこととはいいながら、寂寥せきりょうとも寂莫せきばくとも、何ともかともいいようのない孤独さです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
寂莫せきばくたる深夜——ふかがわ富ヶ岡八幡の社地に、時ならぬ冷光、花林かりんのごとく咲きつらなったのは丹下左膳、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八、岡崎兵衛、藤堂粂三郎ら乾雲の一団が
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり静まってしまって、耳の底がかーんとするほど空恐ろしい寂莫せきばくの中に、船のへさきのほうで氷をたたきるような寒い時鐘ときがねの音が聞こえた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
すつるとなると此の情世界が甚だ寂莫せきばく最少し艶氣を
木曽道中記 (旧字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
寂莫せきばくを敵とし友とし
一握の砂 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
むこうの隅に、ひな屏風びょうぶの、小さな二枚折の蔭から、友染の掻巻かいまきすそれて、ともしびに風も当たらず寂莫せきばくとしてもの寂しく華美はでな死体がているのは、蝶吉がかしずく人形である。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
イヤに寂莫せきばくとした景色である。
増長天王 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
荒物屋のばばあはこの時分からせわしい商売がある、隣の医者がうちばかり昔の温泉宿ゆやど名残なごりとどめて、いたずらに大構おおがまえの癖に、昼も夜も寂莫せきばくとして物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫せきばくとして、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ふせいならんとする、瞬間に異ならず。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)