さかひ)” の例文
そして、疲れて、おまけに少し寒くなりましたので、海岸の西のさかひのあの古い根株やその上につもった軽石の火山礫層くゎざんれきそうの処に行きました。
イギリス海岸 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
「へエ、諸國の集まり者でございますよ。私は武州川越で、權八は三河の國の才造くづれ、燕女つばめは泉州さかひだと聽いてをりますが」
私はこの話のおしまひに私の生れたさかひと云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟ちぬの海に面した和泉国いづみのくにの一小都市です。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
丹後の人此国のさかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居るとさがすなりといへりと。南𧮾子なんけいし此事にあひたりとて記せり。
たづね出さんと又々諸國しよこくへ手をまはされけれ共靱負の在家ありか少しも知ず其中そのうち西國へ差出さしいだされたる探索たんさくの者より靱負は泉州せんしうさかひにて入水じゆすゐせしと云事を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
平八郎は格之助の師藤重ふぢしげせがれ良左衛門りやうざゑもん、孫槌太郎つちたらうの両人を呼んで、今年の春さかひだうはまで格之助に丁打ちやううちをさせる相談をした。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
はじめて河内かはち南方なんぽう御陵ごりようがつくられ、ぎの仁徳天皇にんとくてんのうから三代さんだいばかりは、むかし河内かはちくにであつたがいま和泉いづみくに北方ほつぽうさかひ附近ふきん御陵ごりようまうけられることになりました。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
余は平民社の編輯室へんしふしつ幸徳かうとくさかひの両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄いはく君が裁判の予想如何いかん、余曰くときなり、無罪の判決元より望むべからず、両兄いはしからばすなはち禁錮、罰金乎
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
事務官のさかひといふ、もう白髪をいたゞいた老人が
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
さかひの街のあきびとの
恋衣 (新字旧仮名) / 山川登美子増田雅子与謝野晶子(著)
徂々ゆき/\鬼个島おにがしまさかひ
鬼桃太郎 (旧字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
翌る日、さかひの町人皆吉が、千二百兩の大金を持つて來て、觀喜天くわんきてんを受取り、長崎奉行の手を經て、和蘭オランダ人に引渡されることになりました。
私の居ましたさかひ女学校と云ひますのは小学校の四年級から直ぐに入れる程度の学校でしたが、本科と裁縫科の二つに分けられて居ました。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
丹後の人此国のさかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居るとさがすなりといへりと。南𧮾子なんけいし此事にあひたりとて記せり。
そして二人はどっちからもかけ寄って、丁度畑のさかひで会ひました。善コの家の畑も、茶色外套の豆の木の兵隊で一杯です。
十月の末 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
八畳の間は障子を脱した儘で、ランプもしんを引込ませて此部屋に置いてある。その癖蚊屋を弔つて三人の寝てゐる六畳とのさかひ唐紙からかみは締めてある。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
三ヶの津構つかまひにて事落着に及びたり元來ぐわんらい船乘ふなのりの事なれば夫よりさかひゆき船頭となりしが左右とかく博奕かけごとを好み身持惡きゆゑ人にきらはれつゝ三十歳ばかりに成しころ船中にて不※ふと人の荷物にもつ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処どこでもさかひの大火と云ふやうな芸題げだいで、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
蒔繪まきえも何んにもなく、眞鍮しんちうやニツケルを使つた精巧な出來は、その頃九州やさかひの鍛冶が打つた武骨——だが豪勢な感じのする日本出來の鐵砲ではなく
待て夜食の支度したくして爰を立出泉州さかひに着し知音ちいんの方を尋ねけるに其知音と云は至つて貧敷まづしく日々人にやとはれかすかなるけふりも立兼ねるものなりしが先爰にかくれて逗留とうりうし能き傳手つて
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
そして虔十はまるでこらへ切れないやうににこにこ笑って兄さんに教へられたやうに今度は北の方のさかひから杉苗の穴を掘りはじめました。実にまっすぐに実に間隔正しくそれを掘ったのでした。
虔十公園林 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
「泉州堺といふと、ツイそこにお屋敷を持つていらつしやる石崎丹後樣は。長い間さかひ奉行をしてゐたやうだが——」
白壁には名灸めいきうやらさかひの街の呉服屋やら雇人口入所やとひにんくちいれじよの広告やら何時いつでもられて居るのです。
月夜 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
主人三郎兵衞を差し置いて、あの美しく氣高くさへある内儀が、さかひの町人に詰め寄つたのは、たいしたことでした。
「この像をさかひの町人に賣つたといふ、南蠻人の商人は、江戸へ追つかけて來るやうなことはなかつたでせうか」
かつてのさかひ奉行、俸祿千五百、役高を加へて三千石の殿樣でしたが、面白くないことがあつて御役御免になり、そのまゝ江戸に引揚げで、無役の閑散な日を送つて居ります。
平次はざつと部屋の中を見廻して、父親の部屋に通ずるさかひの唐紙などを動かしたりして居ります。部屋の中には鏡臺が一つ、火鉢が一つ、針箱が一つ。あとには何んにもありません。
それにると江戸では昨今ですが、長崎やさかひや大阪は隨分前からあつた事らしく、曲者が何うしても擧らないばかりでなく、誘拐された少年少女が、それつ切り死骸さへも現はれないので
「兎に角、やつて見るとしよう。子さらひも、長崎やさかひや、大阪から流行はやつて來たことで、江戸では品川寄と深川にあつただけだが、俺の繩張うちへ來ちや放つて置けまい。八、一緒に本町まで行つて見るか」