陰欝いんうつ)” の例文
小作人たちは其処そこで再び彼等独有な、祖先伝来の永遠の労苦を訴へるやうな、地をふやうに響く、陰欝いんうつな、退屈な野良唄のらうたを唄ひ出した。
新らしき祖先 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
陽気な声を無理に圧迫して陰欝いんうつにしたのがこの遠吠である。躁狂そうきょうな響を権柄けんぺいずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。
琴のそら音 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そこが此のうちの一番奥に当る部屋だが、そこを天願氏がゆびさして陰欝いんうつな顔をした。私は思わずその方向をふり返った。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
そして眼つきがおそろしくすわったようになって、そうなくてさえ、平常から陰欝いんうつになりがちの顔が、一層恐い顔になった。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
成程なるほど一家いつかうちに、體の弱い陰氣な人間がゐたら、はたの者は面白くないにきまツてゐる。だが、虚弱きよじやくなのも陰欝いんうつなのも天性てんせいなら仕方がないぢやないか。
青い顔 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
風はピッタリやんでしまって、陰欝いんうつしつけられるような夏雲に、夕照ゆうやけの色の胸苦しい夕ぐれであった。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
陽は、もう丘の稜線に沈みかかって、陰欝いんうつな雲の裂目さけめから、鉱区の一部をあの血の様な色に染めていた。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
それは、今までのような乱暴をしただけでは治まりのつきそうもない、いやに陰欝いんうつな反感だった。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
陰欝いんうつや不幸はどこにもなく、活力にみちた肉塊が音楽に洗われつづけている。リズムは彼のなかにあった。だが、信二は快楽を全身に行きわたらせることができなかった。
その一年 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
まだ?——しかし玄鶴は置き時計を見、彼是かれこれ正午に近いことを知った。彼の心は一瞬間、ほっとしただけに明るかった。けれども又いつものようにたちま陰欝いんうつになって行った。
玄鶴山房 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
陰欝いんうつな薄暗がりが、海上にはい出たために、右舷うげん尻屋岬しりやみさきの燈台が感傷的にまたたき初めた。荒れに荒れる海上に、燈台の光をながむるほど、人の心を感傷的にするものはない。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
西田の声がして家のなかの空気は見るまにわってしまった。陰欝いんうつな空気が見るまにうすらぐような気がした。糟谷は手短てみじかにきょうのできごとから目の前の窮状きゅうじょうを西田にかたった。
老獣医 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
陰欝いんうつ唖々ああと鳴き交すその声は、丘の兵舎にまで、やかましく聞えてきた。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
これ天地もかかる道徳堅固の尊者を無残にも水中に投じて死刑に処するということを悲しむにやあらんと思われるほど、空の色も陰欝いんうつとして哀れげなる光景を呈して居ったそうでございます。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
富岡は、清吉を陰欝いんうつ孤独な性格だと弁護士が云つてゐた言葉を、何だか信じがたい気持ちだつた。——考へまいとしても、富岡は、仕事の最中にも、清吉のにこにこしてゐた顔が眼に浮ぶのである。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
しばらくは宅中うちじゅうに玩具箱をひっくり返して、数を尽して並べても「真田さなだ三代記」や「甲越軍談」の絵本を幼い手ぶりでいろどっても、陰欝いんうつな家の空気は遊びたい盛りの坊ちゃんを長く捕えてはいられない。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
緑の色調が陰欝いんうつで、あまりいい感じがしなかった。
京の四季 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
こんな陰欝いんうつまゆや額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
おれの方が怜悧れいりになると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖然けれどもちかことはツて置くが、陰欝いんうつなのは俺の性分で、しよを讀むのと考へるのが俺の生命だ。
青い顔 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
僕は、ここにも生活はない、と思い初めていた。けれどもそこは、学生とちがったところがあった。真剣だった。そして、だれもが、心の底になにか雪雲のように陰欝いんうつなものをたくわえていた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬ちりめん幔幕まんまくや、爪を張つた蒼竜さうりゆうが身をうねらせてゐる支那の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰欝いんうつな金色を、人波の間にちらつかせてゐた。
舞踏会 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
私には私の心を腐蝕ふしょくするような不愉快なかたまりが常にあった。私は陰欝いんうつな顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私は軽快な心をもって陰欝いんうつな倫敦を眺めたのです。比喩ひゆで申すと、私は多年の間懊悩おうのうした結果ようやく自分の鶴嘴つるはしをがちりと鉱脈にり当てたような気がしたのです。
私の個人主義 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝いんうつな日を送ったのであります。
私の個人主義 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
兄の機嫌買きげんかいを子供のうちから知り抜いている彼らにも、近頃の兄は不思議だったのである。陰欝いんうつな彼の調子は、自分が下宿する前後から今日こんにちまで少しの晴間なく続いたのである。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰しょかんに接し出した時さらにまゆを開いた。というのは、僕の恐れをいだいていた彼の手が、陰欝いんうつな色に巻紙を染めた痕迹こんせきが、そのどこにも見出せなかったからである。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)