漂渺ひょうびょう)” の例文
私は北の空を眺めて、高田平野の果てを限る松並木越しに、漂渺ひょうびょうたる日本海が晴れた穏かな暁の色を浮べているのを見て、斯う思った。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
もうそうなると情慾じょうよくもなく恋愛もありません、………私の心に感じたものは、そう云うものとはおよそ最も縁の遠い漂渺ひょうびょうとした陶酔でした。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
大地から蒸発する肉情的な蘊気うんきの不思議な交錯の中に漂渺ひょうびょうとした気持ちになつて、いくつか生垣いけがきについて角を折れ曲つた。
夏の夜の夢 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
だが、橘の眼はなにかにあこがれて漂渺ひょうびょうとしてけぶっているようなところに、ちらりとのぞかせた瞳の反射が美しいというよりも、気高いものだった。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
座にことばが途絶えると漂渺ひょうびょうたる雪の広野ひろのを隔てて、里あるかたに鳴くように、胸には描かれて、はるかに鶏の声が聞えるのである。
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺ひょうびょうとした水霧すいむの果てに、虫のようにむらがってみえる微かな明りを指しながら言った。
蒼白い月 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
北方に漂渺ひょうびょうと見えたのはタンバケの岬か。西にかすんでいるのはオダルの海であろう。わがイシカリの街は、うしろに向きをかえて、彼の鼻の下にあった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
三十年も後に、築地小劇場で「リリオム」を上演した時、ある貧しい天国的なシーンでオルガンが使われたが、私の心は漂渺ひょうびょうと昔の小学校の校庭に返っていた。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
たゞ漢詩は、和本の木版摺で読まないと、どういうものか、あの神韻漂渺ひょうびょうたる感が浮んでまいりません。
書を愛して書を持たず (新字新仮名) / 小川未明(著)
ことに南方の諸島にあっては、それかと思う島の影が遠く漂渺ひょうびょうの間にちらついてもいたのである。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
女はって往って省三から正面になった障子しょうじを開けた。障子の外は小さな廊下になってそれに欄干らんかんがついていたが、その欄干のさきには月にぼかされた湖の水が漂渺ひょうびょうとしていた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ふりかえって見ると舞台は燈火の中に漂渺ひょうびょうとして、一つの仙山楼閣かいやぐらを形成し、来がけにここから眺めたものと同様に赤い霞が覆いかぶさり、耳のあたりに吹き寄せる横笛は極めて悠長であった。
村芝居 (新字新仮名) / 魯迅(著)
側は漂渺ひょうびょうたる隅田の川水青うして白帆に風をはらみ波に眠れる都鳥の艪楫ろしゅうに夢を破られて飛び立つ羽音はおとも物たるげなり。待乳山まつちやまの森浅草寺せんそうじの塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり。
向嶋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻しんいん漂渺ひょうびょうとして捕捉しがたしじゃ——はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然としてるか」
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
食堂の窓からはなぎさに沿って走っている鉄道の両側にある人家や木立をすかして、漂渺ひょうびょうたる、湖水が見えた。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
浜にくだけるなみの音がざあッとひびいた、それが蜿蜒えんえんとした海岸のかなたまで、次々に、逆立ち、崩れ、消えて行くのが、なぜか漂渺ひょうびょうと、目に見えるようであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
真佐子は漂渺ひょうびょうとした、それが彼女かのじょの最も真面目まじめなときの表情でもある顔付をして復一を見た。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
川はみっつの瀬を一つに、どんよりと落合おちあつて、八葉潟やつばがたの波は、なだらかながら、やっつに打つ……星のうずんだ銀河が流れて漂渺ひょうびょうたる月界にらんとする、あたかかたへ出口のところで、その一陣の風に
光籃 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
それは初夏のもの悩ましいわかい男の心を漂渺ひょうびょうの界にいざのうて往く夜であった。その時は水際みずぎわに近い旅館へわざわざ泊っていた。その旅館の裏門口ではやはり今晩のように巡航船の汽笛の音がうるさく聞えた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなって、浪にただよっている海猫うみねこの群れに近づくころには、そこは漂渺ひょうびょうたる青海原あおうなばらが、澄みきった碧空あおぞらけ合っていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
滋養をらないためか、視力の弱つたかの女の眼に、川は愈々いよいよ漂渺ひょうびょうと流れた。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)