酔興すいきょう)” の例文
旧字:醉興
酔興すいきょうに述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。夫丈それだけではない。
入社の辞 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
揉むには当らぬ。お前の事は初手しょてからいわば私が酔興すいきょうでこうしてかくまって上げているの故、余計な気兼きがねをせずと安心していなさるがいい。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
俺が酔興すいきょうであんな軽業をさせるんじゃねえと思うふしもあるだろう……おやおや、役人が大勢来やがったな、あ、百の野郎を引き上げたな。
と巡査は帰りがけに加奈子に、それは如何いかにも酔興すいきょうだと言うような、また如何にも感服したというようにもとれる口のき方をして行った。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私はしばらく前、酔興すいきょうに手相を見てもらったことがあるが、そのときその大道易者は仔細らしい顔をして、四十までは商売換えをしない方がいいと云った。
朴歯の下駄 (新字新仮名) / 小山清(著)
今はこういう山道を越える者などはほとんど絶えて、僕らのこの旅行などもむしろ酔興すいきょうにおもえるのに、遍路は実際ただひとりしてこういう道を歩くのであった。
遍路 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
讃岐さぬきへ流されてい、これで院(上皇)を犬と呼んだり矢を射るなどの大不敬を酔興すいきょうにやった武士どもの御車みくるま暴行事件はひとまずかたがついたようなものだった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
酔興すいきょうなお品がこれに。松飾まつがとれますと、扇箱のお払いものはございませんか、って、裏ぐちから顔を出しますな。あれは、買いあつめて、箱屋へ返して、来新春らいはるまた——。」
元禄十三年 (新字新仮名) / 林不忘(著)
こんなに長い電灯を何のために作るだろうかと尋ねてみると、これは物好きでも酔興すいきょうでもない。つまり、なるべく大きな光源を作って、物の陰影をなくし、昼を欺くようにしたいからである。
ムーア灯 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
いくら浜村屋が酔興すいきょうでも、九つ十歳とおの娘などに色文いろぶみをつけるわけはない
平賀源内捕物帳:萩寺の女 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。陣州屋はだしぬけに言葉をはさんだ。これは鹿間屋の若旦那、へっへ、冗談です、まったくの酔興すいきょうです、ささ、ぞんぶんに水をおいれ下さい。
ロマネスク (新字新仮名) / 太宰治(著)
余は白い寝床ベッドの上に寝ては、自分と病院ときたるべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興すいきょうさ加減をねんごろに商量しょうりょうした。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「俺らは別に尋ねる人があって来たんだ、酔興すいきょうで歩いて来たんじゃねえや」
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
踊るように、ちょっと写ってすぐ消えましたが、あっしゃあ誰かと思って近づいてみますと、だれも人はいねえで、この屍骸しげえ——武右衛門さんが倒れていたのでございます。酔興すいきょうにも程がある。
釘抜藤吉捕物覚書:11 影人形 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興すいきょうな苦労をします。ハハハハ」と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は例刻の五時がとうのむかしに過ぎたのに、妙な酔興すいきょうを起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「あなたのおっしゃった事は、よく分っています。しかし僕だって、酔興すいきょうにここまで来た訳じゃないんですから、帰るったって帰る所はありません」
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
復活の見込が充分立たないのに、酔興すいきょうで自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑けいべつするところであった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしのでも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからのねがい。一つの酔興すいきょうだ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興すいきょうと思いますわ」
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興すいきょうな邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯いたずらをしたんじゃない。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
普通の人から見れば、まるで酔興すいきょうです。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱にかかっているくらいなのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ここまで来る以上は、都へ帰るのは大変だと思うと、何の酔興すいきょうで来たんだか浅間あさましくなる。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
もとより酔興すいきょうでした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃みのがさない。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「だって、わざとあんな真似まねをする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興すいきょうだって」
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然はっきりえがき出す事ができたような心持がしてうれしいのです。私は酔興すいきょうに書くのではありません。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
道を守り俗に抗する道也はなおさらない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、いたる所に職を辞するのは、自から求むる酔興すいきょうにほかならんとまで考えている。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚のもかかない。絵の具箱は酔興すいきょうに、かついできたかの感さえある。人はあれでも画家かとわらうかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ひどい事を……だって坊さんになるのは、酔興すいきょうになるんじゃないでしょう」
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興すいきょうも手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私は酔興すいきょうでむずかしい事を書くのではありません。むずかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉からできた兄さんもまた存在しなくなるのです。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そうして中に書いてある事が嫉妬しっとなのだか、復讐ふくしゅうなのだか、深刻な悪戯いたずらなのだか、酔興すいきょうな計略なのだか、真面目まじめな所作なのだか、気狂きちがいの推理なのだか、常人の打算なのだか、ほとんど分らないが
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。わずらわしい事おびただしい。何の酔興すいきょうでこんな差別をつけたものだろう、また何の因果いんがでそれを大事そうにならべ立てたものだろう。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
京の宿屋は何百軒とあるに、何で蔦屋つたやへ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶棒かじぼうおろして、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。酔興すいきょうだと思う。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
人間は何の酔興すいきょうでこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールはしょうが合わない。これは大変だと一度は出した舌を引込ひっこめて見たが、また考え直した。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)