蒲生がもう)” の例文
信長は、茶磨山ちゃうすやまの小高い所に立ちながら、戦況を見まもっていたが、やがてうしろの旗本衆を顧みて、蒲生がもうちゅうろう氏郷うじさとを呼びたてた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あづちのおしろにはお留守居役の蒲生がもう右兵衛大夫どのが手うすのにんずで御台みだいやお女中さまがたをしゅごしておいでなされました。
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
また蒲生がもう郡の川合かわいという村では、昔この地の領主河井右近太夫うこんだゆうという人が、伊勢の楠原くすはらという所でいくさをして、麻畠の中で討たれたからという理由で
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
元和五年に福島正則まさのりが除封されてから、蒲生がもう氏、加藤氏、田中氏はじめ、除封削封された諸侯は十指に余っている。
泰勝院殿たいしょういんでん御代おんだいに、蒲生がもう殿申されそろは、細川家には結構なる御道具あまた有之これあるよしなれば拝見に罷出まかりいずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られそろ
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
徳川、前田、蒲生がもう、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公だいこうの見るところは又違ふ。
二流の人 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
天智天皇が近江の蒲生がもう野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子おおあまのみこ)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
「ウム。いろんなことを執固しつこく聞いては、それを焼き焼きしたねえ。それでもあの年三月うちを持って、半歳はんとしばかりそうであった、が秋になって、蒲生がもうさんの借家うちに行った時分から止んだねえ」
雪の日 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
蒲生がもう郡川守村鐘が嶽の竜王寺の縁起を引きたるに、宝亀ほうき八年の頃、この村に小野時兼なる美男あり、ある日一人の美女たちまち来り、夫婦たる事三年ののち女いわく、われは平木の沢の主なり
ほう、按腹鍼療あんぷくしんりょう蒲生がもう鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、うらやましい。おお、琴曲きんきょく教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床おくゆかしい事のう。——べ、べ、べ、べッかッこ。
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
蒲生がもうか——泰軒たいけんであろう、そこにいるのは」
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
それがしは、蒲生がもう浪人の赤壁八十馬あかかべやそま、という者。ごぞんじないか、塙団右衛門ばんだんえもん、あれとは、刎頸ふんけいの友で、共に他日を期している仲。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼は近江おうみ蒲生がもう郡の郷士の子で、幼少の頃から刀法に長じ、近藤いつきという畿内では指折りの兵法家の教えを受けていたが、この夏のはじめに皆伝を許され
内蔵允留守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
まだこのほかにも蒲生がもうひだのかみどのゝおくがたにのぞみをかけていらしったと申します。
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
肥後の山鹿やまがでは下宮の彦嶽ひこだけ権現の山と、蒲生がもうの不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子ままこで母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
武具と香木との相違はそれがし若輩ながら心得居る、泰勝院殿たいしょういんでんの御代に、蒲生がもう殿申されそろは、細川家には結構なる御道具あまた有之由なれば拝見にまかりいずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り
秀吉の大坂移居によって、去年その大坂から大垣へ移封いほうされた池田勝入斎信輝いけだしょうにゅうさいのぶてると、ひとりは蒲生がもう忠三郎氏郷うじさとであった。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
新沼靱負は会津あいづ蒲生がもう家の家臣で、御蔵奉行おくらぶぎょうに属し、食禄しょくろく二百石あまりで槍刀預という役を勤めていた。
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
紀州根来衆ねごろしゅう、北越の佐々さっさ、関東一円も当方に加担かたん呼応あるべく、織田有縁うえんの諸侯、池田、蒲生がもうなどの参加も疑いない。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蒲生がもう家の浪人で、妻の名はさわ、九歳になる娘はお市といった、浪人生活がながかったのであろう、夫婦ともせて、膚の色が悪いし、着ている物も貧しく、荷物も包みが三つしかなかった。
せきじょう峰城みねじょう神戸かんべじょう、伊勢路までゆけば、蒲生がもうどのの軍勢もおり、お味方は充満しておる。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長一族としては嫡子ちゃくし信忠のぶただ、弟の信雄のぶおも行った。水野、蒲生がもう、森、稲葉一鉄なども従って行く。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蒲生がもう氏郷は座中第一の若年ではあるが家柄のゆかしさ天性の気稟きひん、どこか薫々くんくんたるものがある。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蒲生がもう飛騨守の兵士長原孫右衛門が獲たという説もあり、なお一説には、稲葉八兵衛、伊沢吉介、古田八左衛門、古田加助、四人がかりで、辛くも捕ったという伝えなどもあって
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
丹羽、滝川、池田、蜂屋、細川、蒲生がもう、筒井など順次に拝儀は終った。——そして人と席とはそのまま、この夜——故信忠卿の御簾中ごれんちゅうより被下くださる——とあるおときへ移って酒宴となった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
秀吉の西軍が、蒲生がもう、滝川、堀、その他の諸将にひきいられ、ひとたび信雄の麾下きかに取られた峰の城、星崎城、松ヶ島城などに、猛攻をしかけ、急速な奪回戦だっかいせんにかかり出したことは聞えている。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
江州ごうしゅう土山に陣しておられた北畠殿(信長の第二子信雄)と、蒲生がもう殿の勢が一手になって安土へ攻めよせ、城下城塁に火を放たれましたため、火は湖の風をうけて、安土一円をつつんでおります。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生がもう右兵衛大輔たゆうどの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守まるもひょうごのかみどのなど、御本丸守り、二の丸詰の方々まで、数十将におさしずあらせられたように承りました」
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
(堀久太郎と蒲生がもう忠三郎。ふたりして相撲すまえ)
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、小姓組のうちの蒲生がもう忠三郎を呼び
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ほ。蒲生がもうどのか」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)