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活東
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くわつとう
三十五
年の九
月、
日は
忘れたが
初旬であつた。それが
權現臺最初の
發掘で、
其頃余の
宅は
陣屋横町に
在つて、
活東望蜀の二
子が
同住して
居た。
後に
玄川子も
來た。
書齋の
額をねだつた
時、
紅葉先生が、
活東子のために(
春星池)と
題されたのを
覺えて
居る。……
春星池活東、
活東は
蝌蚪にして、
字義(オタマジヤクシ)ださうである。
其所へ
活東花舟二
子が
應援として
遣つて
來たので、
同勢六
人と
成り、
實に
賑やかな
發掘であつた。
……あらゆると
言つて、「
此が
惠比壽ビールの、
此が
麒麟ビールの、
札幌の
黒ビール、
香竄葡萄、
牛久だわよ。
甲斐産です。」と、
活東の
寢た
鼻へ
押つつけて、だらりと
結んだ
扱帶の
間からも
出せば
然うして
失敗でもして、
一人寂しく
歩いて
居ると、あゝ、あの
時、
二人連で
後から
來た
活東と
花舟と、あゝ、
二人共死んで
了つた。
茶店の
息子も
能く
忠實に
働いて
呉れたが、あれも
死んだ。
今日は
天氣が
快いからとて、
幻花子が
先導で、
狹衣、
活東、
望蜀の三
子が、
鍬を
擔いで
權現臺に
先發した。
後から
余も
行つて
見ると、
養鷄所の
裏手の
萱原の
中を、四
人て
連りに
掘散らして
居る。
其時の八
人の
内で、
活東天仙古閑の三
子は、
今は
現世の
人であらぬ。