春霞はるがすみ)” の例文
彼は煙草を持った手をダランと垂れて、ポカンと口をあいて、物憂い春霞はるがすみの中に、さも心地ここちよく舟をいでいた。コクリコクリと、居眠りの最中であった。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
千曲川の岸に蓮華草れんげが咲き、姥捨うばすて山の山つづきに百鳥ももとりさえずりを交わすようになると、向かい合った稲荷山と篠井の里とは、薄紫の春霞はるがすみに朝と晩とを化粧され
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
父上母上及びわれら夫妻と貞夫の五人! 春霞はるがすみたなびく野といえどもわがののどけさには及ぶまじく候
初孫 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
魚容は気抜けの余りくらくら眩暈めまいして、それでもなお、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞はるがすみに煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
甲斐駒の峰々から残雪がすっかり消えると、朝毎の濃霧もいつか間遠になり、やがて春霞はるがすみが高原の夕を染めはじめた。谿川たにがわの水は溢れるようにかさを増し畑の麦は日毎に伸びた。
春いくたび (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やむをえず、好い加減に領承りょうしょうした。そこで羽衣はごろもくせを謡い出した。春霞はるがすみたなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その茫漠ぼうばくとしているところですな。たとえば春霞はるがすみのたなびいている天地のようなおひろさ。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、ややあつてく。姫は巴旦杏はたんきょうのやうに肉づいた丸いくちびるを、物言ひたげにほころばせたが、思ひ返したのかそのままに無言で点頭うなずいた。アスカムは窓に満ちる春霞はるがすみの空へと眼を転ずる。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
まだの花も咲かず蝶々も出ないのですが、路傍のよもぎ田芹たぜりが芽ぐんで、森の蔭、木立こだちの中に、眞珠色の春霞はるがすみが棚引いて、まだ陽炎かげろふは燃えませんが、早春のよそほひは申し分もありません。
春霞はるがすみながるるなべに青柳あをやぎえだくひもちてうぐひすくも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
山が春霞はるがすみの中にぽうと融け込んで、其雪だけがほのかに白く空に浮び出ている時など、不思議な空想が止度とめどなく湧いて来た。一度はそれを探って見たいと思いながらまだ果されずにいる。
思い出す儘に (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
梅子さん、秋のしも、枯野の風の如き劇烈なる男児の荒涼くわうりやうが、春霞はるがすみの如き婦人の聖愛に包まれて始めて和楽を得、勇気を得、進路をあやまたざることを得る秘密をば、貴嬢は必ず御了解なさるでせう
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
手をいたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきにまじって、トンカチリと楊弓ようきゅう聞え、諸白もろはくかんするごとの煙、両側のひさしめて、処柄ところがらとて春霞はるがすみ、神風に靉靆たなびく風情、の影も深く、浅く
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
春霞はるがすみひくや由緒ゆかりの黒小袖。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
流れの末を打ち見やれば春霞はるがすみたなびきたり。かれはしばしためらいつ、言い難き悲哀かなしみ胸をいて起こりぬ。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
今朝の春霞はるがすみは、人霞と変じている。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
始めよりかれが恋の春霞はるがすみたなびく野のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年わかもの今さらのように感じたり。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)