千仞せんじん)” の例文
一歩をあやまっても千仞せんじんの谷底へ落ちてしまう。しかしれているおゆきは身も軽く、五郎吉の通って来たのを逆になんなく峠路へ出た。
峠の手毬唄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
一寸した刹那せつなである。千仞せんじんの崖の上に立ったように目まいがした。急に目先が真暗になった。そしてそれが先達の最期だった。
土城廊 (新字新仮名) / 金史良(著)
見あぐれば千仞せんじんの谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。
旅の旅の旅 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
この時に当ってもし旅人があるならば、その雪のためにたちまち捲き込まれて幾千仞せんじんの幽谷に葬られてしまうということは珍しからぬことであります。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
ちごたけというけわしい峯が御陵のうしろにそびえたち、千仞せんじんのふかい谷底からは雲霧がわきあがってくるので、眼前のものさえはっきりしない心地がされる。
日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳立しょうりつするが恵那峡の岩石美はむしろ山上にあり千仞せんじん懸崖けんがいにある。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
森は押被おっかぶさっておりますし、行燈あんどうはもとよりその立廻りで打倒ぶったおれた。何か私どもは深い狭い谷底に居窘いすくまって、千仞せんじんの崖の上に月が落ちたのをながめるようです。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その籠を我と我が手で切り落して千仞せんじんの谷、底知れずの白水の谷に落ちて死んだ——というような伝説。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
松柏しょうはく月をおおひては、暗きこといはんかたなく、ややもすれば岩に足をとられて、千仞せんじんたにに落ちんとす。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
屋根が壊れていて天套テントでもなければ宿れそうもない、たまたま霧の間から横尾谷の大雪渓と、岳川谷たけがわだに千仞せんじんの底より南方に尾を走らしているのが、瞬間的に光るのを見た。
穂高岳槍ヶ岳縦走記 (新字新仮名) / 鵜殿正雄(著)
山津浪は一気に押し寄せて、家諸共もろとも押し流したものであり、其際の弟は、アルプの嶺に、アヴァランシュを踏で、千仞せんじんの谷にすべり込む気であったに相違ない、これは痛快だと
這松と雑草とに隠されて、其処そこには千仞せんじんの谷の口が、ポカリと開いて居たではありませんか。
天保の飛行術 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
「おれは植木の医者の方が上手かも知れない。蟠竜はんりょうというのはこんなのだろう。これを見ると深山の断崖だんがいから、千仞せんじんの谷に蜿蜒えんえんとしている老松おいまつを思い出すよ」とおっしゃるので
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
他の一はこのわずらいはないがその代り見下せば千仞せんじん云々うんぬんと形容すべき、桟道さんどうまたは岨路を行かねばならぬ。峠に由っては甲種と甲種、または乙種と乙種とを結び付けたのもある。
峠に関する二、三の考察 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
眉の濃い、九州地方特有の顔つきをした女の人が、ひどい悲しみをぐっと堪え、蒼ざめ、而も容儀を崩さないで居るのを見たとき、自分の心も千仞せんじんの谷底にとび降りたような心持になった。
大事な大事な宝石を、千仞せんじんの谷底へ落してしまったつまらなさでもあった。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
我の父母より授かりしたいは今日我の有する体にあらざりしなり、我に永生にまで至るべきの肉体なかりしも、我よく百年の労働と快楽とに堪ゆる霊のうつわを有せり、あおいでは千仞せんじんの谷を攀登よじのぼるべし
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
私は万里の長城のやうな、幅の狭い、恐ろしく高い城壁の上に、仰向きになつてて居る。頭の方から足の方へ、一二尺の広さのみちが、真直ぐに走つて居るが、右と左は千仞せんじんの谷底のやうに深い。
Dream Tales (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
われその響を追ひて狹き戸を濳り出でしに、道は「ミユルツス」と葡萄との鬱茂せる間に窮まりて、脚底千仞せんじんの斷崖を形づくれり。一の瀑布ありてこれに懸る。月光其泡沫を射て、銀丸をなげうつ如し。
雪山の嶮坂をじ登る 暫く休んで北に登ること一里にして西に折れ一方に千仞せんじんの谷間を望みつつ崖道の恐ろしい牟伽羅坂ムカラざかという坂を登って参りましたが
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
子獅子こじし千仞せんじんの谷から、こけつ、まろびつ、い上るような勢いで、川下の、その川流れの、溺死人できしにんの、独断の推定の道庵の土左衛門の存するところに、多数が群がり集まって
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一場の見霽みはらしに上り着いて、海面うなづらが、高くその骨組の丈夫な双の肩にかかった時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞せんじんの絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋とまやすか
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
○肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すとまことに晴れ晴れといい心持がするが、千仞せんじんの断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処にはとても長くは住んで居られない。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
の西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞せんじん、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹しゅうよう比翼をのばして天上の祝福を垂るるあり、夕陽せきようすでに没せんとし
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
千仞せんじんの谷間の鬼 と消えてしまったのでございます。これはいい塩梅あんばいだと思って立とうとするけれども、よほどひどく腰を打ったと見えてどうしても立つことが出来ない。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
この寺の建築は小き者なれど此処の地形は深山の中にありてあるいは千仞せんじん危巌きがん突兀とっこつとして奈落をみ九天を支ふるが如きもあり、あるいは絶壁、屏風びょうぶなす立ちつづきて一水潺々せんせんと流るる処もあり
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)