児供こども)” の例文
旧字:兒供
早く新聞を手にした児供こども達はいずれも天気予報を気にして見たらしく、十四と十二と七つとの三人がそろって新聞を持って来た。
大雨の前日 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
数年前の大杉と少しも違わない大杉であった。そのあとから児供こどもを抱いて大きなおなかの野枝さんと新聞の写真でお馴染なじみの魔子ちゃんがついて来た。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
うかれ車座のまわりをよくする油さし商売はいやなりと、此度このたび象牙ぞうげひいらぎえて児供こどもを相手の音曲おんぎょく指南しなん、芸はもとより鍛錬をつみたり、品行みもちみだらならず
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
しかし児供こどもたいでて初声うぶごえを挙げるのを聞くと、やれやれ自分は世界の男の何人だれもよう仕遂しとげない大手柄をした。女という者の役目を見事に果した。
産屋物語 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
この時助がはげしく泣きだしたので、妻は抱いて庭に下りて生垣いけがきの外を、自分も半分泣きながら、ぶらぶら歩るいて児供こどもを寝かしつけようとしていた。しばらくすると急に母は大声で
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
可愛い児供こどもの生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨みじめ死様しにざまをしないとも限らないから、いつそ今うスヤ/\と眠つてる間に殺した方がいいかも知れぬ、などと考へるのは
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
『馬鹿な事ばしなさんな。年端としはも行かん児供こども中毒あたって死んだならどうしなさるな』
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
で、破壊しては新たに建直し、建直してはた破壊し丁度児供こども積木つみきもてあそぶように一生を建てたりこわしたりするに終った。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
先生はしきりと面白がって一人興懐にけるというようなことが常に珍らしくなかった、したがってたわいもないことにも児供こどもらしく興に乗って浮かれるようなことがあった
竹乃里人 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
「ワット」と児供こどもが読んで、「母上かあさま、ワットとは何のこと?」と聞いた。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で楽しく語り合つた事のある、玄関の上の大露台だいバルコニイを振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝めぐりに立つて居た児供こどもの一人が、頓狂な声を張上げて叫んだ。
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
児供こどもの時から聴きれていたのと、最一つは下層階級に味方する持前もちまえの平民的傾向から自然にこれらの平民的音曲に対する同感が深かったのであろう。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
男も女も十五六になればもはや児供こどもではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
ドコにあっても椿岳の画は粗末に扱われて児供こども翫弄おもちゃとなり鼠の巣となって亡びてしまったのがかなり多いだろう。
姉は其頃そのころ何んでも二十二三であった。まだ児供こどもがなく自分を大へんに可愛がってくれたのだ。自分が姉を見上げた時に姉は白地の手拭を姉さんかぶりにして筒袖の袢天はんてんを着ていた。
守の家 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
巌谷いわやの伯父さんといったらドンナ山の中の児供こどもでも知ってるが、漣山人さざなみさんじんでは都会の中学生にも今では通用しない。
長塚が渾身情的無邪気に児供こどもらしきに対しては、さすがの先生も理性をなげうち精察を捨てざるを得なかったらしい。長塚はしばらく滞京して毎日の様に先生の所へ往っている。
正岡子規君 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
が、こっちはく覚えていても、先方むこうの眼中には背の低い児供こども々々した私が残ってるはずがないから、何度摺れ違ってもツイぞ一度顔で会釈した事さいなかった。
不思議な事には美妙と二葉亭とは親たちが同じ役所の同僚であって、児供こどもの時からの朋友であった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
取出でていうほどの奇はないが、二葉亭の一生を貫徹した潔癖、俗にいう気難きむずかし屋の気象と天才はだの「シャイ」、俗にいう羞恥はにかみ屋の面影おもかげ児供こどもの時からほの見えておる。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
伽噺とぎばなしの外には何にも読まない小学校の児供こどもですらが『金色夜叉』の名だけは知っておる。
が、小説雑著は児供こどもの時から好きでかなり広く渉猟していた。その頃は普通の貸本屋本は大抵読尽して聖堂図書館の八文字屋本を専らあさっていた。西洋の物も少しは読んでいた。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
その頃牛込の神楽坂かぐらざかに榎本という町医まちいがあった。毎日門前に商人が店を出したというほど流行したが、実収の多いに任して栄耀えように暮し、何人もめかけを抱えて六十何人の児供こどもを産ました。
私が今いうと生意気らしいが、私は児供こどもの時からヘタヤタラに小説を読んでいた。西洋の小説もその頃リットンの『ユーゼニ・アラム』を判分教師に教わり教わりながらであるが読んでいた。
次男に生れて新家しんやを立てたが、若いうちに妻に死なれたので幼ない児供こどもを残して国を飛出した。性来すこぶる器用人で、影画かげえの紙人形を切るのを売物として、はさみ一挺いっちょうで日本中を廻国した変り者だった。
数千の兵船を焼いたというが児供こどもの水鉄砲くらいの感じしか与えない。
八犬伝談余 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
二葉亭は児供こどもの時は陸軍大将を理想として士官学校を志願までした。
二葉亭追録 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)