行人こうじん)” の例文
橋の上にはしばらくの間、行人こうじんの跡を絶ったのであろう。くつの音も、ひづめの音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
真綱はこれを憤慨して、「ちり起るの路は行人こうじん目をおおう、枉法おうほうの場、孤直こちょく何の益かあらん、職を去りて早く冥々めいめいに入るにかず」
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
月光のもとに劇場すでに閉ぢ行人こうじんようやまれならんとして、軒下なる用水おけのかげには犬眠り夜駕籠客を待つさまを描いておのずから広重独特の情趣を造出つくりいだせり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
轔々りんりん蕭々しょうしょう行人こうじん弓箭きゅうせん各腰にあり。爺嬢やじょう妻子走って相送り、塵埃じんあい見えず咸陽橋かんようきょう。衣をき足をり道をさえぎこくす。哭声ただちに上って雲霄うんしょうおかす。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
埃で白い街道の上には行人こうじんの姿も見えなかった。街道は村落の間をぬけて、平野の上を真直に続いていた。
土地 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
いのりの声が各戸の入口から聞えて来た。行人こうじんの喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会をねらってやめなかった。
ナポレオンと田虫 (新字新仮名) / 横光利一(著)
多美児タミル族の女たちは昼は、暗い土間の奥から行人こうじんに笑いかけたり、生薑しょうが水をささげてテーブルへ接近したり、首飾りを手製するために外国貨幣をあつめたりした。
ヤトラカン・サミ博士の椅子 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上まちなかに一団の人だかりがして、わいわいののしりさわぐ声がいやがうえにも行人こうじんの足をとめていた。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
すると、行き行人こうじんの誰彼は、好奇な色を露骨な表情で、テワスの顔をのぞきこむのである。それからまるで見くらべでもするもののように、改めて近藤の顔に視線を移す。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
もっと悪い噂は行人こうじんや村家の物をかすめ取るということが、あたりの人の口のに上っていた。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
このとき公園の小径に、一人の怪しい行人こうじんが現れた。怪しいといったのはその風体ふうていではない。彼はキチンとした背広服を身につけ、型のいい中折帽子を被り、細身の洋杖ケーンを握っていた。
恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ずらりと行人こうじんが垣をつくって、あらゆる角度からカメラがならび、瞬間シャッタアの音が草を濡らす小雨のようだ。無意識らしく話しこみながら、保姆がちらと手を上げて髪を直した。
すなはち京都四条坊門しじょうぼうもんに四町四方の地を寄進なつて、南蛮寺の建立を差許さるる。堂宇どうう七宝しっぽう瓔珞ようらく金襴きんらんはたにしき天蓋てんがいに荘厳をつくし、六十一種の名香は門外にあふれて行人こうじんの鼻をば打つ。
ハビアン説法 (新字旧仮名) / 神西清(著)
即ち句の意味は、行人こうじん絶間絶間たえまたえまに鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くというのでないと主張している。句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
リゼットはわざと行人こうじんきこえるような大きな声を出した。
売春婦リゼット (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
恐る恐る高き台を見上げたる行人こうじんは耳をおおうて走る。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
行人こうじんの落花の風をかえりみ
五百句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
駒形堂こまかたどうの白壁に日脚ひあしは傾き、多田薬師ただのやくし行雁ゆくかり(中巻第七図)に夕暮迫れば、第八図は大川橋の橋袂はしたもとにて、竹藪たけやぶ茂る小梅の里を望む橋上きょうじょうには行人こうじん絡繹らくえきたり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
元来彼は何のために一粟野廉太郎の前に威厳を保ちたいと思うのであろう? 粟野さんはなるほど君子人かも知れない。けれども保吉の内生命ないせいめいには、——彼の芸術的情熱にはついに路傍の行人こうじんである。
十円札 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
遠く自動車の警笛けいてき、口笛を吹いている行人こうじん、など街の騒音そうおん
新学期行進曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
風呂敷包をかかえ、時には雨傘を携え、夜店の人ごみにまぎれてひそか行人こうじんの袖を引くものは独立の街娼である。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「夏目さんの『行人こうじん』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずにぜんを下げさせるところがあるでしょう。あすこをろうの中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
追憶 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
あたりは湖の底のように静かで、行人こうじんの気配もない。
くろがね天狗 (新字新仮名) / 海野十三(著)