東照宮とうせうぐう)” の例文
それから奥、東照宮とうせうぐう境内けいだいの方へ向いた部屋々々へや/″\家内かないのものの居所ゐどころで、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館きやうちゆうかんくわくわんと云ふ匾額へんがくかつてゐる。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
午頃ひるごろまで長吉ちやうきち東照宮とうせうぐう裏手うらての森の中で、捨石すていしの上によこたはりながら、こんな事を考へつゞけたあとは、つゝみの中にかくした小説本を取出とりだして読みふけつた。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
其處そこる、……百日紅さるすべりひだりえだだ。」上野うへの東照宮とうせうぐう石段いしだんから、不忍しのばずいけはるかに、大學だいがく大時計おほどけいはり分明ぶんめいえたひとみである。かゝるときにもするどかつた。
湯どうふ (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
東京中の彌次馬が上野に集まつて、山下から山内の東照宮とうせうぐう前に移してあつた黒門が、その根を掘り荒されて、危ふくブツ倒れさうになつたのを、淺ましいが、面白いことに私なども見て居ります。
僕等はいつかほこりの色をした国技館こくぎくわんの前へ通りかかつた。国技館は丁度ちやうど日光につくわう東照宮とうせうぐう模型もけいか何かを見世物みせものにしてゐる所らしかつた。僕のかよつてゐた江東かうとう小学校は丁度ちやうどここに建つてゐたものである。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
致しける其七日の滿まんずる日の暮方くれがた山の上よりしてさつ吹下ふきおろす風に飄然と眼の前に吹落ふきおとす一枚のふだあり手に取て見るに立春りつしゆん大吉だいきち護摩祈祷ごまきたう守護しゆご可睡齋かすゐさいと記したれば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋かすゐさいと云ば東照宮とうせうぐうより御由緒ゆゐしよある寺にして當國の諸侯しよこうも御歸依寺也因ては可睡齋へ參り委曲くはしき事を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
塀際へいぎはにゐた岡田は、宇津木の最期さいごを見届けるやいなや、塀に沿うて東照宮とうせうぐう境内けいだいへ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前ぢやうまへ文鎮ぶんちんけて、こつそり大塩の屋敷を出た。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
かんじけるまことに正直しやうぢき理非りひまつたふして糸筋いとすぢの別れたるが如くなりしとかや其後正徳しやうとく六年四月晦日みそか將軍家繼公しやうぐんいへつぐこう御多界ごたかいまし/\すなはち有章院殿と號し奉る御繼子けいしなく是によつて御三家より御養子ごやうしなり東照宮とうせうぐうに御血脉けつみやくちかきによつて御三家の内にても尾州公びしうこう紀州公きしうこう御兩家御帶座ごたいざにて則ち紀州公上座じやうざなほり給ふ此君仁義じんぎ兼徳けんとくにまし/\吉宗公よしむねこうと申將軍しやうぐんとなり給ふ其後そのご諸侯しよこうの心を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮とうせうぐう附近の与力町よりきまちに出て、ゆふ七つどきには天満橋筋長柄町ながらまちを東にる北側の、迎方むかへかた東組与力朝岡助之丞あさをかすけのじようが屋敷で休息するのであつた。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)