懸物かけもの)” の例文
もはや本復は覚束おぼつかないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期まつごが近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物かけものを枕もとにかけてくれ」
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それから、せんだっての金をこの者に渡してくれろという手紙を書いて、それに猿の懸物かけものを添えて、長塚に持たせてやった。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
等持院殿仁山大居士とうじいんでんにんざんだいこじ」のそれで、懸物かけものもまた故人が戦陣のひまにはよく画いていたといわれる尊氏自筆の地蔵絵であった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それを後に福羽美静翁が半折はんせつに書いて、自ら讃歌を添えて贈られたのが、懸物かけものになって残っていました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。まずとこにはいつ行っても、古い懸物かけものが懸っている。花も始終絶やした事はない。
一夕話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
柏木氏は古物に関する知識をすこぶる豊富に持っていて、先日懸物かけものの上部から下っている二本の錦繍の帯に就て、最も合理的な説明をしてくれた。以前懸物は宗教的な意味を持っていた。
父はそれで懸物かけものの講釈を切り上げようとはしなかった。大徳寺がどうの、黄檗おうばくがどうのと、自分にはまるで興味のない事を説明して聞かせた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
たて二尺、横二尺四、五寸くらい、横幅で紙質も分らないほど古びた懸物かけものであったが、それを見ていると、武蔵はふしぎに半日でも飽くということを覚えない。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の部屋には手紙を懸物かけものにした物があった。
この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
宗湛はしかとそう意志しながら静かに壁間の懸物かけものはずして巻き、箱にまで納めて、それを小脇に持った。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物かけものを一ぷく売りゃ、すぐいてくるって云ってたぜ」
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
……最前もふと、とこのお懸物かけものを拝すにつけ、ふだんのお心がけもゆかしゅう覚えていましたわえ
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
君に懸物かけもの骨董こっとうを売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないでもうけがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化ごまかしたのだ。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
土蔵から道具類の出しれも一仕事だし、懸物かけものの掛け代えとか、茶席のしつらえとか、料理の工夫とか、当日の接待とか、ふつうの閑人ひまじんがやるにしても、並大抵のものではない。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
玄関にも靴と下駄げたが一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物かけものが二幅掛かっていた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
何という特徴もない十二畳部屋であったが、ふと、床間の壁を見ると、そこに掛けてあった大幅の懸物かけものが下に落ちていて、茶席の瓦燈口かとうぐちに似た切抜穴が、洞然と暗い口を開いている——
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物かけものにでも仕立てさせようと云う気が起った。
子規の画 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
近頃不圖ふと思ひ出して、あゝして置いては轉宅の際などに何處へ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へつて懸物かけものにでも仕立てさせやうと云ふ氣が起つた。
子規の画 (旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
懸物かけものでも額でもすぐ人の眼につくような、書斎の装飾が一つ欲しいと思って、見廻していると、色摺いろずりの西洋の女のが、ほこりだらけになって、横に立てけてあった。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物かけもの価額ねだんを想像したり、手焙のふちで廻したり、あるいははかまひざへきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
自分は父が筆を動かす間、とこに活けた黄菊だのそのうしろにある懸物かけものだのを心のうちで品評していた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
袋は能装束のうしょうぞくの切れ端か、懸物かけものの表具の余りでこしらえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦てずれと時代のため、派手な色を全く失っていた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
老人はこの模糊もこたる唐画とうがの古蹟にむかって、生き過ぎたと思うくらいに住み古した世の中を忘れてしまう。ある時は懸物かけものをじっと見つめながら、煙草たばこを吹かす。または御茶を飲む。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物かけものには最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二人は懸物かけものを見て、当時を思い出しながら子供らしく笑った。岡田はいつまでも窓に腰をかけて話を続ける風に見えた。自分も襯衣シャツ洋袴ズボンだけになってそこに寝転ねころびながら相手になった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
家は田舎いなかにありましたけれども、二ばかり隔たった、——その市には叔父が住んでいたのです、——その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざわざ父に見せに来ました。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そうして懸物かけものの前にひと蹲踞うずくまって、黙然と時を過すのをたのしみとした。今でも玩具箱おもちゃばこ引繰ひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方がはるかに心持が好い。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
懸物かけものが見える。行灯が見える。たたみが見える。和尚の薬缶頭やかんあたまがありありと見える。鰐口わにぐちいて嘲笑あざわらった声まで聞える。しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)