在家ざいけ)” の例文
道元もまた同じく「孝」についていう——在家ざいけの人は『孝経』等の説を守るがよい。しかし出家は恩をすてて無為に入ったものである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
瀧口入道、都に來て見れば、思ひの外なる大火にて、六波羅、池殿いけどの、西八條のあたりより京白川きやうしらかは四五萬の在家ざいけまさに煙の中にあり。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
在家ざいけではどんなことをするか知らんし、また寺方てらかたでも白衣科と書くかどうか、そんなこと知らん。わしはわしの書きたいやうにするんや。」
ごりがん (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
肉粥にくかゆとかあるいは卵饂飩たまごうどんとかを拵えて立派なご馳走を喰わせます。僧侶であれば酒がないだけで、在家ざいけでは皆そんなものに酒を添えて出します。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
お寺にいては、そういろいろのものをやるわけには参りませんから、在家ざいけにおりますうちに、あれこれと手を出しておきたいと思っているんでございます。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
加うるに由緒ゆいしょの深い寺刹じさつがどれだけあるでありましょうか。従ってそれらのお寺や信心にあつ在家ざいけで用いる仏具の類や数は並々ならぬものでありましょう。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
「いたしまする。——ついては、この機縁をもって、私を在家ざいけの帰依者の一人と思し召し下さりませ。妻もやがて、ご拝顔を得て、お礼を申しあげたいといいおります」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
在家ざいけの尼となり出家し、法華經を信じ奉ずるために「女人成佛」といふ、むづかしい教理がふくまれてゐるのであらうが、弘安三年五月三日の窪尼くぼのあまあての文の頭書とうしよなどは
その鼠の残りどもことごとく陸へ上り、南部秋田領まで逃げ散り、苗代なわしろを荒し竹の根を食い、或は草木の根を掘り起し、在家ざいけに入りて一夜のうちに五穀をそこなうこと際限なかりし。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
麿まろが此の山へ登ったのは、三つの歳であったそうだが、そなたは四つになるまで在家ざいけに居たと云うではないか。そんなら少しは浮世の様子を覚えて居てもよさそうなものだ。
二人の稚児 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それは九月のなかばから白面はくめん金毛きんもう九尾きゅうびの狐が那須の篠原しのはらにあらわれて、往来の旅びとを取りくらうは勿論、あたりの在家ざいけをおびやかして見あたり次第に人畜をほふり尽くすので
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
女犯にょぼんの罪ある大罪人を、わが許しもなく在家ざいけの者が勝手に取り計らうとは何ごとかッ」
クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝れいはいサンルフィノ寺院に出かけて行った。在家ざいけの生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。
クララの出家 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
旧宿役人時代から彼は彼なりに在家ざいけと寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
寺になければならぬ涅槃像、年に一度涅槃会ねはんえにかけて、世尊入滅の日をしのぶべき涅槃像が質屋の壁にかかっている。在家ざいけの人の持つまじきものだから、寺の住持が金にでも困っててんしたのであろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
今も白鶏は在家ざいけに過ぎたものとし、寺社に専ら飼う所あり。
何を便たよりに尋ぬべき、ともしびの光をあてに、かずもなき在家ざいけ彼方あなた此方こなた彷徨さまよひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈〻心惑ひて只〻茫然と野中のなかたゝずみける。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
チベットでは立ってお便ちょうずをすることは在家ざいけの男でなくてはほとんどやらないです。僧侶及び婦人、在家の男子でも少し心掛けのある者はみなつくもって小便をする。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
道元は答えた——在家ざいけの女人は愛欲に生きつつ仏法を学んで、なお得ることがあるかも知れない(「たゞこれ志のありなしによるべし。身の在家出家にはかゝはらじ」)
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
もとより沙門しゃもんの人にしたからには、町家の人や在家ざいけ武士さむらい公卿くげの家庭のような夜ごとのまどいや朝夕のむつまじい日ばかりを彼女も予期してはいなかった。けれど——
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
中にて作りしは山崎の在家ざいけ権十郎といふ人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといへり。
遠野物語 (新字旧仮名) / 柳田国男(著)
もとよりこの尼御前あまごぜたちは在家ざいけの尼たちであるが、送られた手紙は、文章も簡潔で實に好い。それよりもよいのは、寄進きしんされた品目ひんもくをいつも頭初はじめに書いて、感謝してゐる率直な表現だ。
他力易行いぎょうの行者は、ありのままこそ尊い、配所の囚人めしゅうどであれば囚人のままで、在家ざいけにあれば在家のままで、ただいつも、本体の弥陀のすがたを、しかと見て、見失わずに——
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法さほうにつきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家ざいけの者のみのあつまりなり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
かれの喝棒かつぼうを食って、今日の更生を得た大岡市十郎——いまの越前守は、その後も、文通の上で、正覚しょうがくの道をたずね、身は市井の公吏と劇務の中にあっても、心は在家ざいけ居士こじ、鉄淵の弟子として
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)