一跨ひとまた)” の例文
彼はいきなり戸のはりに手をかけると、器械体操で習練した身軽さでびあがり、一跨ひとまたぎに跨いで用心ぶかく内側へおりて行った。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間ひあわい一跨ひとまたぎ、すえ風呂をこの空地くうちから焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あたりを見廻し、背後うしろに立っている看視人の姿には気づかずに、彼は花壇を一跨ひとまたぎしてその花の方へ手を伸ばしたが、摘みとる勇気は出なかった。
松山と半ちゃんは、その傘の中をくぐって一跨ひとまたぎの泪橋なみだばしを渡った。その時わかい男がつばめのように後から来て二人におどりかかった。壮い男は円木棒まるたんぼうを持っていた。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
主人の言葉に従えば、クウリンの町は此処をること、ほんの一跨ひとまたぎだと云うことである。しかし実際歩いて見ると、一跨ぎや二跨ぎどころの騒ぎではない。
長江游記 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
この大石の出岬から女の足でも一跨ひとまたぎ出来る渓流を越しますと、向うのなぎさの庭石伝いになって、道は石灯籠のわきを通って草木の多い築山の小さい尾根に到ります。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
図抜けてせいの高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から一跨ひとまたぎに跨いでしまった。
かみの者といって手荒くもなるまい、どこかそこらの横へソッと抱いて片づけてしまえ! と目くばせで五、六人ゾロゾロと前へ出ると、その手もれさせず、杖一歩、かえって向うから一跨ひとまたぎして
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此川を一跨ひとまたぎに渡りしと覚えしは、其川向かわむこう二三げんにも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其ふんを見当ることあるに鈴竹すずたけといふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
町もこうは狭からざりしが、今はただ一跨ひとまたぎ二足三足ばかりにて、むかい雨落あまおちより、此方こなたの溝までわたるを得るなり。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
李張はふらふらとその丘の上にあがった。黄昏ゆうぐれの邸内には燭火ともしびの光が二処ふたところからちらちらとれていた。垣はすぐ一跨ひとまたぎのところにあった。彼はそこにたたずんでともしびの光を見ていた。
悪僧 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
蒼空あおぞら飜然ひらりと飛び、帽子のひさしかすめるばかり、大波を乗って、一跨ひとまたぎにくれないの虹をおどり越えたものがある。
春昼後刻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
便所は裏二階の降口おりぐちを左に往って、その往き詰めを右に折れた処にあった。縁側えんがわからその便所へは一跨ひとまたぎの渡廊下わたりろうかがついていて、昼見ると下には清水の流れている小溝があって石菖せきしょうなどが生えていた。
料理番と婢の姿 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それをあぶなっかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨ひとまたぎで、漁師町の裏へあがろうとする処で、思いがけなくきついたろうではないか。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お夏の一諾いちだくおもんぜしめ、火事のあかりの水のほとりで、夢現ゆめうつつの境にいざなった希代の逸物いちもつは、制する者の無きに乗じて、何と思ったか細溝を一跨ひとまたぎに脊伸びをして高々と跨ぎ越して
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おでんの膳なぞ一跨ひとまたぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠のちりを払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
話した発奮はずみに、あたかもこの八畳と次の長六畳との仕切が柱で、ずッと壁で、壁と壁との間が階子段はしごだん向合むかいあわせに欞子窓れんじまどのように見える、が、直ぐに隣家となりの車屋の屋根へ続いた物干。一跨ひとまたぎで出られる。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)