足利尊氏あしかがたかうじ)” の例文
国師は足利尊氏あしかがたかうじ発心ほっしんせしめた有名な人ですが、この無窓国師は「長寿ながいき秘訣ひけつ」すなわち長生の方法について、こんな事をいっています。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
一人は将軍最初の上洛じょうらくに先立って足利尊氏あしかがたかうじが木像の首を三条河原さんじょうがわらさらした示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香くれたまさかである。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
足利尊氏あしかがたかうじと戦った楠木正成だろう。軍記読ぐんきよみの辻ばなしで、わしも聞いたことがある。……ヘエ、このへんで死んだのかね」
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この耄及愚翁もうぎゅうぐおう本は奥書きに安貞あんてい二(一二二八)年の年号があるものであって、足利尊氏あしかがたかうじに擁立せられた後光厳院よりは少なくとも二、三十年は古い。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
その土地というのは、あの時の話であってみると、足利尊氏あしかがたかうじ以来の名家、西美濃の水野家の土地を譲り受けるということであったが、ここへ来て見ると
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ワシントン、那波翁なおう云々うんぬん中々なかなか小生はいの事にあらず、まん不幸ふこう相破あいやぶかばねを原野にさら藤原広嗣ふじわらのひろつぐとその品評ひんぴょうを同じゅうするも足利尊氏あしかがたかうじと成るを望まざるなり
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
藤原鎌足ふじわらのかまたりの忠もまたいうまでもない。そもそも諸君は足利尊氏あしかがたかうじ平清盛たいらのきよもり源頼朝みなもとのよりともをも英雄となすであろう。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
その図案を参酌さんしゃくして製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、元弘げんこう三年四月、足利尊氏あしかがたかうじ赤松あかまつの兵を合せて大いに六波羅ろくはらを破ったので
これは勿論足利尊氏あしかがたかうじによって、天下を奪われることを予言したところの、その一文であるのであったが、如何に聡明の正成にも、そこまでは思い及ばなかったのである。
赤坂城の謀略 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
他の府県殊に東日本の方には、オカタというのがまた主婦のことで、是も決して新しい名称ではない。中古の記録には武家の母や妻女、たとえば足利尊氏あしかがたかうじのおっかさんなどを大方殿おおかたどのっている。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ただ主人しゅじん足利尊氏あしかがたかうじの不心得からやむなくそうなったものだろうが、主に仕えては死を惜しまぬは、また武門の臣節しんせつでもある。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
足利尊氏あしかがたかうじの木像がさらされるとかいうなら、筋は通るが、しかし、碩学せきがく高僧である大和尚が、死後まで、俗人冷遇の目のかたきにされるというのがわからねえでがす
向こうのおかに現われた敵軍の大勢! 丸二つ引きの旗をへんぽんとひるがえして落日を後ろにおか尖端とっぱな! ぬっくと立った馬上の大将たいしょうはこれ歴史で見た足利尊氏あしかがたかうじである。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤もろおかまさたねら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏あしかがたかうじ以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのためさらし物としたのも、その河原だ。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
後醍醐ごだいご天皇、大塔宮だいとうのみや、竹の園生そのう御方々おんかたがたは、申すもかしこき極みであり、楠木正成くすのきまさしげ新田義貞にったよしさだ名和長年なわながとしというような、南朝方の勤王の士や、北条高時ほうじょうたかとき足利尊氏あしかがたかうじ、これら逆臣の者どもが
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
王族より出て、但馬たじまの豪族となり、足利尊氏あしかがたかうじたすけて、後、越前一国を領し、文明年間から、ここに根を張り拡げて
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
西郷自身にその意志が無いとしても、その時の形勢は、明治維新を、僅かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を、足利尊氏あしかがたかうじの役にまで祭り上げずにはおかなかったであろう。
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「どうもこうもねえや、畜生ちくしょうッ、足利尊氏あしかがたかうじの畜生ッ」と千三はまだ夢中である。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏あしかがたかうじ以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原さんじょうがわらさらしものにしたという。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
足利尊氏あしかがたかうじといえば、思いあわせるが、ただことばのうえで「なんこう」といっても、ひとはちょっと思い出さないような顔をしている今——元禄げんろくの世であった。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ちょうど、足利尊氏あしかがたかうじが最初に勤皇として起り、ついに建武中興をくつがえしたように、徳川を倒すはよいが、徳川を倒した後の第二の徳川が起っては、なんにもならないではないか。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
上毛の平野生品のさとは、建武二年、時の朝賊足利尊氏あしかがたかうじを鎌倉に討つべく新田義貞とその一族が天兵たるの忠誠を誓って旗上げしたところとして誰知らぬものはない。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
水野家というのは、西美濃山谷で、足利尊氏あしかがたかうじ以来の名家だそうであります。名家ではあるが、出でて仕えることをしないで、郷士、浪人の地位に甘んじているが、その実力は相当の大名に匹敵する。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その足利尊氏あしかがたかうじが中央に失脚して、楠木正成や新田義貞にもやぶられ、長駆、九州へ逃げ落ちて行ったさい、たちまち鎮西の大勢力が、彼の麾下きかにあつまって来たことだ。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「太平記の中にある、元弘三年と正平七年の両度の合戦——新田義貞、義宗、義興などの一族と、足利尊氏あしかがたかうじの大軍とが、しのぎをけずり合うた小手指こてさしはらというのは、この辺りだ」
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
正月下旬、千種有文ちぐさありふみの家来賀川はじめを襲撃した中にもいたというし、つい先頃の足利尊氏あしかがたかうじの木像梟首きょうしゅ事件にも、かかわっていたという風説がある。学問好きで、そんな実行家じゃないと思ったが
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)