にほひ)” の例文
しかしドン・ジユアンは冷然と、舟中しうちうつるぎをついた儘、にほひい葉巻へ火をつけた。さうして眉一つ動かさずに、大勢おほぜいの霊を眺めやつた。
LOS CAPRICHOS (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
何処どこの山から来た木の葉か?——このにほひいだだけでも、壁をふさいだ書棚の向うに星月夜の山山が見えるやうである。
わが散文詩 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
僕は昔は渡し舟へ乗ると、——いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭いそくさにほひのしたことを思ひ出した。しかし今日こんにちの大川の水はなんの匀も持つてゐない。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
珈琲コオヒイにほひ、ボイの註文を通す声、それからクリスマストリイ——さう云ふ賑かな周囲の中に自分はにがい顔をして、いやいやその原稿用紙と万年筆とを受取つた。
饒舌 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
日の光、茉莉花まつりくわにほひ、黄色い絹のキモノ、Fleurs du Mal, それからお前の手ざはり。……
動物園 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
僕はコンクリイトの建物の並んだまるうちの裏通りを歩いてゐた。すると何かにほひを感じた。何か、?——ではない。野菜サラドの匀である。僕はあたりを見まはした。
春の夜は (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
さう云ふ内にこの公園にも、次第に黄昏たそがれが近づいて来た。おれのく路の右左には、こけにほひや落葉の匀が、混つた土の匀と一しよに、しつとりと冷たく動いてゐる。
東洋の秋 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
その姿すがた煤煙ばいえん電燈でんとうひかりとのなかながめたとき、もうまどそとあかるくなつて、そこからつちにほひ枯草かれくさにほひみづにほひひややかにながれこんでなかつたなら、やうやきやんだわたくし
蜜柑 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
寒い朝日の光と一しよに、水のにほひあしの匀ひがおれの体を包んだ事もある。と思ふと又枝蛙えだかはづの声が、蔦葛つたかづらおほはれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあつた。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
其処そこを独り歩いてゐると、冷たい木犀もくせいにほひがし出した。何だかその匀が芭蕉や松にも、とほるやうな心もちがした。すると向うからこれも一人ひとり、まつすぐに歩いて来る女があつた。
雑筆 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
二三年まへに故人になつた僕の小学時代の友だちの一人ひとり、——清水昌彦しみづまさひこ君の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書のにほひのない、活き活きした口語文を作つてゐた。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
わたしはなんとも返事をしずににほひのない珈琲コオヒイすすつてゐた。けれどもそれは断髪のモデルに何か感銘を与へたらしかつた。彼女は赤いまぶたもたげ、彼女の吐いた煙の輪にぢつと目をそそいでゐた。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
下足札はまだ木のにほひがする程新しい板のおもてに、俗悪な太い字で「雪の十七番」と書いてある。自分はその書体を見ると、何故なぜ両国りやうごくの橋のたもとへ店を出してゐる甘酒屋あまざけやの赤い荷を思ひ出した。
東京小品 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」のにほひを残してゐた。けれども今はのあたりに、——O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾をし示した。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
誰か瓦斯ガスにほひの中にシヤベルの泥をすくひ上げてゐる。誰か、——ではない。まるまると肥つた紳士が一人ひとり、「詩韻含英しゐんがんえい」を拡げながら、いまだに春宵しゆんせうの詩を考へてゐる。……(昭和二・二・五)
春の夜は (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
少くとも敬意を表する前にはにほひだけでもいで見るものである。……
鷺と鴛鴦 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
なんでも雨上あまあがりの葉柳のにほひが、川面かはもを蒸してゐる時だつた。
動物園 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
わたしは唯樟脳しやうなうに似た思ひ出のにほひを知るばかりである。
わが散文詩 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)